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毒虫事件から二日。リサは誰の目に見ても弱り切っていた。
仕事こそ真面目にこなしていたものの、その目は虚ろで半開きの唇から漏れ出るのは溜息ばかり。何かを呟いている事に気付いた伊作が近寄ると、まるで経を読むかのように淡々と「きり丸きり丸きり丸」と呟いていたらしい。怖かったと泣きそうな顔で話す伊作に苦笑を落とし、宥めるように肩に手を置いて半助は頭を掻いた。

反省を促すつもりで三日間きり丸を抱っこする事を禁じたが、結果は半助の予想を遥かに上回っていた。予想以上に効果抜群で、二日目の朝にして思わず「もう十分ですよ」と言ってしまいそうになってしまったほどだ。
彼女のきり丸への愛情は並々ならぬものだと知ってはいたが、どうやら正確に捉えきれていなかったらしい。

「明日になれば元に戻ると分かってはいるんですが、心配で……」

果たして彼女は今日を生き残る事が出来るのだろうか。伊作のそんな心の声が聞こえてくるのは、半助自身が同じことを思っているからだろう。堪らず吐き出した息は伊作を苦笑させるには十分過ぎるものだった。

「土井先生の気持ちも分かりますけどね」
「分かってくれるか」
「僕は保健委員ですから。新野先生から聞いた時、本当は僕も言おうと思ったんです。でもあんなリサさんを見たらもう十分だなと……」
「ははは……」

乾いた笑い声を上げて項垂れる。あぁ、胃が痛い。胃薬を飲むかと尋ねられたけれど丁重にお断りしておいた。
一年は組の教室でいつものように胃痛と闘いながら生徒達への授業を終え、火薬委員会の委員会活動に顔を出し、夕餉のおでんと睨めっこをし――考えてみれば今日一日の大半は胃痛との戦いである。

「きり丸」

風呂を終えて就寝の準備をしていたきり丸の部屋を訪ねると、既に寝間着に着替え髪を下ろしたきり丸が顔を輝かせて半助の下へ駆け寄ってきた。その後ろで同じく寝間着姿の乱太郎としんべヱが「良かったね、きりちゃん」「ねー」なんてほのぼのと笑っている。どうやら彼らは半助がここを訪れた理由を正しく理解しているらしい。忍者がこうも簡単に行動を読まれて良いのだろうかと己の迂闊さに溜息が出そうになったが、致し方ない。
きり丸について来るように言うと、両腕で枕を抱えたきり丸が乱太郎としんべヱに「おやすみ」と手を振って部屋を出てきた。数歩後ろをついて来るきり丸の足取りの軽さに苦笑しながら職員長屋へ向かう。

「あれ? リサさんの部屋に行くんじゃないんすか?」

てっきりくの一長屋へ向かうと思っていたのだろう、首を傾げるきり丸に「あそこは基本的に男子禁制だからな」と言葉を返して縁側を進む。空き室となっている部屋の前で立ち止まり、障子戸越しに「リサさん」と呼びかける。物凄い勢いで開いた戸の向こうから目を輝かせたリサが飛び出してきた。

「土井先生!!」

あまりの勢いに尻もちをつく半助にしがみつき、胸に額をぐりぐりと押し付けるリサ。しがみつくその姿はまるで幼子のようだが、感触だけは幼子のものではない。慌てて肩に手を置いて引き剥がすと、あっさり身を引いたリサの姿が霞む。あ、と思った時には既に遅く、リサの腕の中に枕を抱えたままのきり丸がすっぽり収まっていた。

「え、あれ?」

ぱちぱちと目を瞬くきり丸も、どうやら彼女の早業に驚いているらしい。何もこんな所で驚異の身体能力を披露しなくても良いだろうに。苦笑しながら身を起こした立ち上がった半助は、目尻に涙を浮かべてきり丸に頬ずりをしているリサの肩を叩いた。

「ほら、リサさん。明日も早いんですから寝ないと」
「ううぅ、きり丸きり丸きり丸ぅぅ……会いたかったよう、抱っこしたかったよう」
「毎日会ってたじゃないすか」

くしゃりと笑うきり丸は、リサにされるがままだ。この三日間、幽霊じみた様子のリサを心配そうにちらちら見ていたきり丸を思い出して苦笑。リサもリサなら、きり丸もきり丸だ。

「リサさん、このままではきり丸が風邪をひいてしまいますよ」

次の瞬間にはまたリサの姿が霞み、二人は二組敷かれた布団の上にいる。きり丸がリサの枕の隣に枕を横に並べるのを幸せそうに見つめるリサは、今か今かと餌を待つ獣のようにも見えたが、考えない方が良いだろう。部屋の隅の燭台に向かい、火を落として部屋を出ようとすると「えっ」と驚いた声。

「どうしたんですか?」

振り返り問いかければ、返ってきたのは耳を疑う言葉で。

「土井先生、どこ行くんですか?」
「……はい?」
「え、え? 一緒に寝てくれるんですよね?」

ほら、布団! 先生の分もあるのに!
ぼすぼすと隣の布団を叩くリサ。言われてみれば、布団が二組敷かれているというのに、きり丸はリサのすぐ隣に寝転がっている。きり丸の隣には主のいない空の布団が一組残っているのだ。半助は頬を引きつらせた。

「……いえ、私は部屋に戻りますので」
「ど、どうしてですか!? ままま、まだ怒って……!?」
「リサさん、落ち着いて。話をしましょう」

落ち着け。落ち着くんだ。自分にもそう言い聞かせながら半助は彼女達の枕元へ歩み寄り膝をつく。布団の上に正座をするリサと、その横に寝転がり欠伸をしているきり丸。目を擦るきり丸に布団をかけてやったリサが不安げな眼差しを向けてきた。

「ちゃんと反省したんでしょう? もう怒ってませんよ」
「じゃ、じゃあ! 一緒に――」
「寝ません」

ぴしゃりと言い放つと、途端に情けなく眉を下げたリサが身を乗り出して半助の装束の端を掴む。

「どどどどうしてですか……!」
「それはこちらの台詞です。きり丸を連れて来てあげたじゃないですか」
「きり丸と土井先生はセットでしょう!?」
「そうなの!?」

思わず叫び返し、ハッと我に返って咳払い。もう夜も遅いのだ。他の先生方の迷惑にならないようにしなければ。

「ちゃんときり丸断ちしました。我慢しました」
「分かってます。だからこうして連れて来てあげたんじゃないですか」
「土井先生も一緒がいいです」
「ダメです」
「どうしてですか?」
「私には私の部屋があります」

言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐが、リサの手は緩まない。

「今日だけ」
「ダメです」
「じゃ、じゃあ、私が寝るまで……!」
「それもダメです」

以前、布団に引きずり込まれた事を思い出して断れば、打ちひしがれた様子のリサが項垂れる。それでも半助の装束から手を離さない辺り、彼女が諦めていないことを如実に語っている。

「…………どうしてもですか?」

捨てられた子犬のような目を向けてくるリサに「う、」と怯んだ半助だが、ここで降参するわけにはいかない。いかないのだ。何せ、同室の伝蔵が何かにつけて「もうリサさんで良いじゃないか」だの「今度うちのにも会わせてやろうかしら」なんて言っているのだ。何と言って紹介する気ですかと尋ねる勇気はなかった。今ここでリサの要望を受け入れてしまえば、明日以降伝蔵からの小言が増えるだろうことは明白だ。何としてでも部屋に戻らなければ。

「…………分かりました」

しょんぼりと肩を落としたリサが、未練たっぷりに半助の装束から手を離す。この後味の悪さが何とも言えない。大きな溜息を落として半助はもぞもぞと布団に潜り込んだリサの頭をそっと撫でてやった。

「寝るまでですよ」

甘い。甘すぎる。自覚はある。けれど、途端に顔を輝かせるリサを見てしまえば、まぁいいかと思ってしまうのだから困る。さすがに布団に入ることはせず、いつの間にか夢の中へ旅立ってしまったきり丸の頬をつつくリサに「こら、やめなさい」と窘めて枕元に腰を据えた。

「ふふ、土井せんせー」
「はいはい、何ですか」
「私ね、兄弟がいるんですけど、こうやって一緒に寝たことがなかったんです。だから、嬉しい」

くふくふと擽ったそうに笑うリサを見て、きり丸を見て。
外見は全く違うというのに、まるで本当の姉弟のように見える。

「ここでは、きり丸が弟ですね」
「じゃあ、先生がお兄ちゃんですか?」

返ってきた問いかけに、半助は曖昧に笑って沈黙を返した。
兄。兄か。心の内で呟いて、どうもしっくりこないなと首を傾げる。けれど、さほど歳の変わらない彼女の父親役も出来れば御免被りたいと思う。半助の心中は複雑だ。
だというのに、リサは言う。

「あ、でもきり丸からすれば土井先生がお父さんですよね。じゃあ私のお父さんか」
「勘弁してください」

即座に返したそれにリサがまた笑って、安らかに寝息を立てるきり丸の額に己のそれをこつんと合わせる。

「ありがとう、先生」
「ん?」
「家族みたいに、接してくれて」

私を傍に置いてくれてありがとう。はにかむリサに、苦笑。

「もう、あんな思いは御免だよ」
「すみませんでした」
「新野先生が驚いていたよ。身体は本当に大丈夫なんだな?」
「はい。あれくらいなら何ともないです」

じゃあ、どれくらいなら駄目なのか。決して弱くはない毒素を持った大量の虫に刺されたというのに。
手を出してくださいと言えば、布団の中からにゅっと手が伸びてくる。あの時は赤い斑点がついていた手のひらは、今はもうすっかり元通りだ。

「竹谷から、貴方のこれは”訓練”の賜物だと聞きました」
「あぁ……そう言えば、言ったかも」

独りごちたリサの手が半助の手をそっと握る。微かに震えるそれは、半助の拒絶を恐れているのだろう。無意味だといい加減理解してくれれば良いのにと思うのに、こんなにも想ってくれていることが嬉しくもある。複雑な気持ちだと半助は眉を下げて微笑んだ。

「苦しかったですか?」
「うーん……よく、覚えてないです。小さい頃はそうだったかもしれないけど……他にもいっぱい訓練したから」

どの訓練が苦しかったのか覚えてない。そう続けたリサに、鉛を飲み込んだような不快さを覚えた。リサの家業は分からなくて、今まではそれで良いと思っていたのに。毒の耐性をつけるなんて、自分が想像していたよりも遥かに過酷な訓練に胸が苦しくなる。
一般常識は知らなくて、幼い頃から過酷な訓練ばかりを受けて。情報を与えられるたびに見えてくるリサの家業。
こんなにも素直な子が。笑って、泣いて。自分の感情を隠すことも出来ない子が。大人になりきれない子が。

「リサさん」
「んー……?」

片足を夢の世界に突っ込みかけているリサの、気の抜けた返事に安堵する。
穢れを知らないように見える白い手をそっと握ると、ふにゃりと笑ったリサが握り返してきた。

「せんせーの手は、あったかい、ですねぇ」
「君の手も温かいよ。とても」
「ふふ……」

擽ったそうに笑ったリサが言う。半助ときり丸のおかげなのだと。夢か現実か分かっているのかも怪しい様子で言う。
二人に会えて良かった。幸せだ、と。

「ずっと……ここ、に、いたい、なぁ……」

途切れ途切れに言葉を紡いで。リサの意識は完全に夢の世界へと旅立っていった。
幸せそうに眠る、似ても似つかない二人の、そっくりな寝顔。半助は何故だか無性に泣きたくなった。

「ずっと、」

それ以上は声に出せず、力なく首を振る。
彼女には帰る場所がある。帰る家も、待っている家族もいるのだ。
けれど、とも思う。もし彼女の帰る家が、待っている家族が、彼女を苦しめるだけのものであるならば。

それなら、ずっとここにいたら良いではないか、と。

「……おやすみ」

リサときり丸の頭をそっと撫でて。半助は部屋に戻ろうと膝を立てた。
数日前と同様、リサの馬鹿力によって叶うことはないのだけれど。