「本当に、申し訳ありませんでした」
丁寧な所作で頭を下げるリサを見つめたまま八左エ門は困り果てていた。
毒虫を探すのを手伝ってくれると言った新しい事務員。勘違いで襲いかかってしまった相手。疑問と警戒を抱く相手の助けを受ける事に抵抗はあったけれど、これも仕事だと言うリサの言葉に了承した。
けれど、だからと言って彼女に好意的に接する事はしたくなくて、わざと虫網と虫カゴの場所を教えなかった。それらを探している間に毒虫を見つけてしまおうと、そう思っていた――本心では、彼女の助けなど欲しくないとそう思っていたから。
それなのに、リサは毒虫を捕まえていた。
八左ヱ門が教えなかったばかりに、ひたすら素手で捕まえていたのだ。毒があると知っていたくせに、どうしてそんな愚かな事をしたのか――舌打ちを零したい気持ちになりながら応急処置を施そうとして、そして拒まれた。
”毒には耐性があるから、死なないよ”
困ったように微笑むリサに何を言ってるのだと一喝して、けれどどんなに経っても症状が顕れなくて。
得体の知れない女に警戒と動揺を顕にしたその時。
”リサさん……っ!!”
切羽詰まった声に振り返れば、この上なく慌てた様子の半助がこちらに向けて駆けてきた。その後ろには虎若と三治郎の姿があり、同じように顔を蒼白にしていた。
あ、土井先生。呟くリサは当事者だというのにのほほんと平和そうな顔をしていて。目の前までやって来た半助がリサの手のひらを見て、顔を強ばらせて。それに気付いたリサが慌てて手を隠して。
”素手で捕まえる馬鹿がどこにいる!!”
日頃から半助の怒声は聞いていた。
問題ばかり起こす一年は組の生徒達にしょっちゅう怒っているのを何度も見かけたからだ。
けれど、違う。
今回は。今回だけは。
半助の後を追ってやって来た三治郎と虎若が今にも泣きそうな顔で怯えているのが見えた。こんなにも怒った半助を見るのが初めてなのだと、二人の様子で気付く。
半助は怒っていた。常になく、心の底から怒っていた。
リサも気付いたのだろう。あまりの剣幕にびくりと大きく身体を揺らしたリサがバツが悪そうに半助から顔を逸らす。だ、大丈夫ですよ。発した声は気まずい空気に溶けて消えた。
怒りの治まらない半助に手を引かれて医務室へと連れて行かれるのを、八左ヱ門は呆然と見送った。小さくなる二人の背中を見つめていると、くいくいと三治郎が八左ヱ門の袖を引く。差し出されたカゴの中に入った毒虫と、これまでに自分が集めた毒虫、そしてリサが捕まえたものを合わせると数はぴったり合った。良かった。呟いて小屋にカゴを戻しに行くと、八左ヱ門達は医務室へと急いだ。
「ごめんなさい、もうしません」
保健医の新野先生に手当てを受け、手のひらに包帯を巻かれたリサが半助に謝っていた。正座をして腕まで組んでいる半助を前に、リサは板についた様子で土下座をしている。寄越される冷めた視線の所為だろうか、困ったように眉を下げたリサは泣きそうだ。
「ど、土井先生……」
「………」
無言のまま、半助がただただ厳しい視線を向ける。
「あの……、だって、その……」
「”だって”じゃない」
「はい……あの、でも、」
「”でも”じゃない」
ぴしゃりと返ってくる声に、リサの目が涙が滲んだのが見えた。
「…………ご、めん、なさい」
「悪いと思ってないくせに謝るな」
とうとう俯いてしまったリサの肩が微かに震えている。どうしよう。え、これ俺どうしたら良いの? まずい時に来てしまったと、八左ヱ門は新野先生の方を見た。こちらを見た新野が困ったように微笑む。それにぎこちなく笑みを返した八左エ門は、医務室に来てから自分にしがみついて離れない後輩達を見下ろした。リサにつられたのか、半助が怖いのか。三人まで泣きそうになっている。ぽんぽんと頭を撫でてやると、リサ以上に泣きそうになっている三人が八左エ門を見上げた。それに苦笑を返して深呼吸を一つ。
「――あの、土井先生」
意を決して声をかければ、半助が八左エ門を見た。寄越される視線に怯みそうになりながら、八左エ門は頭を下げる。
「すみませんでした。俺が、毒虫を探して欲しいと頼んだんです」
え。と、リサが八左エ門を見た。それを視線で黙らせて八左エ門は続ける。
リサを信用していなかったこと、どうせ断られるだろうと思ったこと。
了承の声も口だけのものだと思い込み、網とカゴの場所を伝えなかったこと。結果としてリサが素手で捕まえ、刺されてしまったこと。虎若と三治郎が息を呑んだことに苦いものを覚えながら、八左エ門はリサを見た。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げて謝罪の言葉を紡ぐ。医務室に静寂が訪れた。
「………だ、そうだが?」
「あ……うん、あの……それは、別に……」
半助の声を受けてリサが困ったように口を開く。顔を上げると、声と同じくらい困った顔をしたリサがこちらを見ていた。
「別に、いいよ。あの……ほら、怪しいしね。それに、その……」
ぎこちなく言葉を紡いでリサがちらりと半助を見た。
八左エ門を見た半助の目に怒りは無かったというのに、リサに向けた時だけは傍目にも分かるほどに怒っている。
「た、たぶん……それじゃ、ないと、思う、のですが……」
「では、何だと?」
「その……わ、私が、あの……網もカゴも、探さなかったから、だと……」
「何故探さなかったんだ?」
鋭い声にリサが俯いた。
ぼそぼそと小さな声が「だ、大丈夫、だから」と訴える。
知っていたのだ。リサは始めから、知っていた。
八左エ門がわざと網とカゴの場所を伝えなかった事を。自分で探すことも出来たのに、毒に耐性があるという理由でそうしなかった。誰かに尋ねる事もしなかった。八左エ門とて、リサから直接尋ねられていたならば渋々と教えていただろう。けれどリサはそれをせず、素手で毒虫を捕まえて、刺された。
八左エ門の謝罪は見当違いも甚だしいものだった。
そこではない。半助が怒っているのは、そこではなかった。
「心配、かけて……ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げたリサが再度謝罪の言葉を紡ぐ。深く下げられた頭を見下ろしていた半助は、やがて深く息を吐き出して組んでいた腕を解いた。
「心配かけた事を怒ったわけじゃない」
「……?」
幾分和らいだ声におそるおそる顔を上げたリサが半助を窺い見る。叱られた子どものようなそれに半助が溜息を落とした。
「君が自分を大事にしないから、怒ったんだ」
「、」
「私やきり丸を大事に思ってくれるのに、何故自分の事は大事に出来ないんだ。それに、君に毒に対する耐性が有ろうが無かろうが、報せを受ければ私は勿論、きり丸だって心配する。矛盾しているとは思わないか?」
あ。掠れた声を零してリサが目を見開いた。僅かに青くなった顔を見て半助が微かに笑みを零し、咳払いを一つ。もういつもの半助の姿だ。虎若と三治郎がホッと安堵の息を漏らしたのが聞こえた。
「罰として、三日間きり丸抱っこを禁じる」
「そんな……!!」
一瞬で蒼白になったリサに「反省しなさい」と言い残して立ち上がった半助は、この世の終わりだというような顔をするリサの前にしゃがみ込み、包帯に覆われた手をそっと取った。ホッと微かに漏れた安堵の息に、彼がどれだけ心配していたのかが窺い知れる。
「無事で良かった」
「、せ、先生、あの……」
「三日間、禁止」
「ご、ごめんなさい! 反省してます! だから、せめて一日……!」
涙目で訴えるリサに容赦なく出席簿を振り下ろして床に沈めた半助は、苦笑する新野に礼を言うとこちらへやって来た。その手にあるままの出席簿に反射的に身構えてしまった八左エ門の肩に手を置いてから、その背にしがみつく孫次郎の頭を一撫で。
「孫次郎も。無事で良かった」
「は、はい……」
「もう逃がすんじゃないぞ」
毒虫。八左エ門に釘を刺して半助が出て行くと、むくりと起き上がったリサがぼろぼろと涙を溢れさせる。
「き、きり丸……!」
三日間なんて……!
今日はきり丸抱っこして寝ようと思ったのに……!
ああああああ! 私のバカ! バカ……!!
ぽかんとする八左エ門の前でリサが打ち拉がれた様子で突っ伏した。
「うわああん! 私のバカああぁぁ!」
泣き叫ぶリサに、どうしたものかと困り果てていると廊下から聞こえてくる慌てた足音。勢いよく戸が開いて飛び込んで来たのは、リサと同じくらい顔を青くして眉を吊り上げたきり丸で。
「リサさん……!!」
「きり丸……!」
「毒虫に刺されたって何ですか! 自分から刺されたって何ですか! 何でそんな事するんですか!」
物凄い剣幕でリサに駆け寄ったきり丸は、動揺するリサに「土井先生に聞いたんですから!」と声を荒げる。あぁ、怒り足りなかったんだな。心の内で呟いて八左エ門は目の前で繰り広げられる修羅場を傍観する。
「何が耐性っすか! もし毒が効いてたらどうなってたんすか! 死んじゃってたかもしれないのに!!」
「ご、ごめ……き、きり丸……」
「いなくならないって言ったくせに! 一緒にいるって言ったくせに!」
”リサさんの嘘つき!!”
止めの一言を投げつけてきり丸は医務室を飛び出して行ってしまった。またもや残されたリサの顔は青から白へと変わっている。泣くことすら忘れてしまったリサは、八左エ門達が見つめる中、ばたりとその場に倒れて動かなくなった。
「彼女にはきり丸が一番の薬になるようですね」
次からはあの子を呼ぶことにしましょう。微笑む新野に八左エ門は引き攣った笑いを返す事しか出来なかった。
孫次郎を助けてくれた礼を言い忘れた事に気付くのは、数刻後のこと。