『イセカイ』からやって来たという新しい事務員。リサ。
半助ときり丸の家で一緒に暮らしていたと聞いていたし、一年は組の皆がすぐに懐いたというのも知っている。始めは疑っていた六年生までもが彼女と笑い合っているのだから、きっと悪い人ではないのだろうと孫次郎は思う。
けれど、それは遠くに見ているだけだから思えるのであって、リサと二人きりという状況に耐えられる程に信頼しているわけではない。何しろ、孫次郎はリサの事を何も知らないのだから。
恐怖から涙が溢れ、つい委員会の先輩である八左エ門を呼んでしまったのも仕方のない事だと許してほしい。八左エ門がリサに襲いかかった時には驚いたけれど、ちくちくと嫌味を言う顰め面のリサには殺されてしまうのではないかと恐怖を覚えてまた泣いた。赦してくれて良かった。
それから毒虫が逃げ出したと三治郎達が報告に来て。
各人それぞれ毒虫を探しに虫網と虫カゴを持って学園中を探し回り始めた。
「竹谷先輩とリサさんと三人で何してたの?」
首を傾げる三治郎と虎若の問いには上手く答えられず、僕あっちを探すねと言って一人駆け出したのが少し前。新しい事務員さんに刃を向けてしまった八左エ門が何か罰を受けたりはしないだろうか、もし退学なんて事になったらどうしよう――そんな不安が孫次郎を襲った。
怖くて。ただただ怖くて。また涙が溢れてきて。
ひっぐ、えっぐと泣きじゃくる孫次郎はもう毒虫を探すどころではない。毒虫達がよく逃げ込む菜園までやって来たものの、一度決壊した涙は中々引っ込んでくれなくて。
気付かなかった。
だって、今まで大丈夫だった。だから平気だと思っていた。
毒虫が自分を襲うなんて、これっぽっちも考えてなかった。
孫次郎が気が付いた時、毒虫はもうすぐそこにいて。
こちらに狙いを定めてまっすぐ飛んでくるのが見えて足が竦んだ。逃げなきゃ。それか、虫網を使って捕まえてしまえばいい――頭はそう訴えるのに、手も足も何かに縛られてしまったかのように動かない。
「孫次郎!!」
八左エ門の焦った声に混じって聞こえる羽音。孫次郎の周りを飛び回る毒虫のブブブ、という羽音がすぐ近くに聞こえた。あ、と思った。八左エ門の叫び声が遠くに聞こえて、
「だめだよ」
頭の上から静かな声が降ってきた。羽音はもう聞こえない。おそるおそる顔を上げるとリサがいた。いつの間にか孫次郎の背後に立っていたリサが、緩く握った拳を目の前に突き出してくる。
「孫次郎!!」
「竹谷先輩……」
「大丈夫か!? 刺されてないか!?」
「だ、大丈夫です……あの……あ、ありがとう、ございます……」
前半は八左エ門に、そして後半はリサを見上げてそっと囁くと、こちらを見下ろすリサの表情が和らいだ。
「ほら、カゴ。出して」
言われるままに空のカゴの蓋を開けると、リサが優しい手つきで毒虫をカゴの中へと落とす。ブブブと羽音を立てて数匹の毒虫がカゴの中で飛び回っていた。すごい、もうこんなに捕まえたんだ。無意識に呟いて孫次郎はカゴの蓋を閉めるリサの手を何となしに見た。
「あっ!」
リサの手のひらには小さな赤い点がたくさんついていた。毒虫に刺されたのだ。咄嗟にリサの手を掴むと、驚いたのか手がびくりと震える。な、なに? 上から降ってくる声にも動揺が走っていた。
「刺されてます!」
「何だって!?」
「あぁ……大丈夫だよ」
気にしないでという言葉と共に手は離れていった。
「早く残りも探さなきゃ」
「馬鹿! 何言ってんだ! 毒虫なんだぞ!!」
八左エ門が怒鳴りながらリサの手首を掴んだ。リサが驚く事などお構いなしに、強引に手のひらをこじ開けて患部を確認する。虫カゴも虫網も使わなかったのだろう、逃がさないように毒虫を捕らえていた手のひらはあちこち刺されて赤く腫れていた。
「孫次郎! 水取ってくれ!」
「は、はいっ!」
慌てて処置を始めようとする八左エ門の指示に孫次郎が頷く。リサが焦ったように制止をかけた。
「ちょ、ちょっと待った! 本当に大丈夫だから……!」
「何が大丈夫なんだよ!! こんなに刺されたら……っ!」
途切れた声に不安と恐怖が湧き起こる。どうしよう、もしリサが死んでしまったら……。孫次郎の目にまた涙が滲んだ。八左エ門と孫次郎がこんなにも焦っているというのに、当の本人であるリサはただ困ったように空いている方の手で頬を掻いている。
「え、と……大丈夫なんだよ、本当に。毒には耐性があるんだ」
「……は?」
思いがけない言葉に八左エ門と孫次郎が声を揃えてリサを見る。二人からの視線に居心地悪そうな顔をして、リサが繰り返した。
「毒には耐性があるから、死なないよ」
と。
何を言ってるのか分からず、孫次郎は呆然とリサを見上げた。
「……な、に、言ってるんだよ……そんな、簡単につくわけねぇだろ」
「うん、でも……ずっと、訓練したから……これくらいの毒じゃ何ともないよ」
そんなはずはない。孫次郎だって知っている。
だって、この毒虫達の持つ毒は神経毒だ。少量ならまだしも、こんなにも沢山刺されてしまえばすぐに動けなくなってしまう。リサだって、そのうち――
「あれ……まだ、動いてる」
どうして。だって、そんなの、あるはずないのに。
大の大人だって、訓練された忍者だって、これだけ刺されれば動けなくなるし、最悪、生命を落とす事だってある。だからこそ、この毒虫を飼っているのだ。学園長の生命や忍術学園を狙う輩から守る為に、飼っているのに。
「大丈夫だよ」
安心させるように微笑むリサは、まるで本当に刺されていないかのようにピンピンしている。
この人、何なんだろう。
恐怖よりも、心配よりも、ただ漠然とした疑問が孫次郎の中にあった。