「どうやら上手くいったみたいですな」
伊作に手を引かれて医務室へ向かうリサを、半助と伝蔵は長屋の屋根の上から見つめていた。
再び鍛錬に向かってしまった文次郎のことは気がかりだが、まぁ良いだろう。昨日は一日中ハラハラさせてもらったが、こうして無事に纏まったようで良かったと思う。
「しかしまぁ、随分と惚れられましたねぇ、土井先生」
「……止めてくださいよ」
ニヤニヤと楽しげな伝蔵から顔を背ければ、こちらを見上げていた仙蔵と目が合う。微笑んだ仙蔵は軽く頭を下げると長屋の中へと消えていった。それを受けて再びリサの背中へと目を向ける。落とし穴に落ちそうになる伊作を咄嗟に抱き寄せているのが見えた。
「これじゃあどっちが男なのか分からないじゃないですか!」
「ご、ごめん! でも引っ張らないと伊作君落ちちゃうし……」
「うっ、ううっ……どうせ、僕は不運ですよ……っ」
「うぇっ!? ちょ、まっ、わ、分かった! 次からは一緒に落ちるから……!」
落ち込む伊作に妙な気を遣いながら歩いていくリサの背中を眺めていた半助は、自分が無意識の内に頬を緩めていたことに気付いた。慌てて咳払いをして誤魔化すが、既に伝蔵には気付かれていたらしい。隣でくつくつと笑う声がする。
「まぁとにかく……良かったです」
脳裏に浮かぶのは、可愛い教え子たちの顔で。
きっとリサは伊作たちと共に食堂に向かうのだろう。一緒に朝餉を食べるリサたちを見て、きり丸たちは喜ぶに違いない。リサのことだから食堂でもきり丸を抱きしめて乱太郎やしんべえに笑われるのだろう。そこに六年生たちの笑い声も混ざるのだろうと想像すると、やはり嬉しくて。
「………良かったですね」
約束が守れて。信じてもらえて。受け入れてもらえて。
だらしなく頬を緩めていた半助は、隣から感じる視線とニヤニヤ歪む伝蔵の顔に慌てて表情を取り繕った。
「土井せんせー!!」
授業を終えて廊下を歩いていると、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。足を止めて声の主を探せば、グラウンドの方から走ってくるリサの姿はすぐに見つかった。掃除中なのか箒を持つ彼女は反対の空いている方の手をブンブン振って駆け寄ってくる。その姿が犬のように見えて思わず噴き出すと、すぐ傍までやって来たリサは訝しげに眉を寄せた。
「何ですか?」
「いーえ、別に。掃除は終わったんですか?」
「はい! きり丸が、今日は練習場で手裏剣の練習があるから見に来てって言ってたので」
「あぁ、次の時間ですよ。うーん、でも……」
言葉を切って半助は苦い笑みを浮かべた。
良い子たちばかりだが、落ちこぼれと呼ばれる一年は組だ。的に向かって手裏剣を打つだけの授業だというのに、有り得ない所へ打ち込んでしまう彼らを傍で見学するというのは、何というか危険だ。
「せんせー? どうかしたんですか?」
「んー……なるべく、遠くから見学した方が良いと思いますよ」
「遠くから? ――あ、そっか。あまり近くにいると気が散っちゃいますもんね」
そっか、そうですよね、と納得した様子で頷くリサに半助は貼り付けた笑みを返す。
誤解してしまったようだが、まぁ良いだろう。近くにいすぎると気が散ってしまうのも確かなのだから。
「そう言えばリサさん、良かったですね」
「え? ――あ、そうなんですよ! 聞いてくださいせんせー! あのね! 六年生の皆がね!」
「はいはい、聞いてますよ」
朝、見てましたから――とは言わない。言った本人がどう思っているのかは知らないが、あんな風に言われた本人としては物凄く気恥ずかしいのだ。大切に想ってくれていることは知っていた。恩人だと、本当に感謝していると言ってくれていたから。
ただ、それを改めて他の人間に話しているのを聞くと、やはり物凄く照れる。
六年生たちと一緒に朝餉を食べたと話すリサの額には絆創膏。あんな砂利の上に擦り付けるからだ。
「あまり、無理はしないでくださいね」
指の甲で額の絆創膏をそっと撫でながら言えば、嬉しそうに語ってくれていたリサがぽかんと半助を見上げて、それからへにゃりと頬を緩ませた。そして言われたのは何とも判断に迷う言葉で。
「土井せんせー、よく忍者になれましたねぇ」
「………どういう意味ですか?」
ひくり。頬を引き攣らせながら半助はヘラヘラ笑うリサを見下ろして問いかけた。
こめかみに浮かぶ青筋に気付いているのかいないのか、リサは半助の心情などお構いなしに言う。
「だって優しいんだもん」
「――、」
「私は凄く嬉しいし助かりましたけど、忍者として大丈夫なのかなー、と」
きり丸も他の子たちも皆そうなんですけどね、と話すリサの顔はやはり緩んでいて。半助は堪らず大きな溜息をついた。
「……リサさん」
「はい?」
「私は貴方の方が心配ですよ。大丈夫ですか? 色々と」
「大丈夫ですよ?」
「………まぁ、良いですけどね」
本人が気にしていないのなら何も言うまい。保護者的観点から見れば甚だ不安ではあるのだけれど。
鐘の音が聞こえてグラウンドへと視線を送れば、一年は組の生徒たちがその奥の練習場の方に集まっていた。あ、始まった! と声を弾ませたリサがこちらを振り返り「せんせーは見ないんですか?」と問いかけてくる。
「取り敢えずこれを職員室に持って行って、その後は……そうですね、たまには私も見学をすることにします」
「私も箒を片付けて来ます! じゃあまた後で!」
言うなり用具倉庫の方へ走り去って行くリサが時折ぴょんぴょんと足元を見ないまま不自然に飛び跳ねている。あぁ、そうか。あそこに落とし穴でもあるのか。くすりと笑みを零し、半助もまた職員室へと急いだ。
職員室に教材を置いて再びグラウンドへ戻ると、リサは既に戻ってきていた。すぐ近くの教室で一年い組が授業を行っているから場所を移そうと囁けば、リサはその時になって漸く気付いたらしく、申し訳なさそうな顔でい組の教室に頭を下げて――戸は閉まっているから向こうからは見えないのだけれど――半助の後について立ち上がった。
練習場からさほど遠くない位置にある木の下へとやって来れば、リサは目を輝かせながらその場に座った。初めて見る手裏剣の練習だからか、きり丸がいるからか。どちらの意味合いが強いのかまでは判断出来ないが、とにかく楽しそうで何よりである。
隣に腰を下ろして木に寄りかかれば、こちらに気付いていた伝蔵がは組の生徒たちをぐるりと見回して口を開く。
「えー、今日は見学者がいるが、皆はいつも通り怪我をしないように真剣に取り組むこと!」
「あっ! リサさんだ! 土井せんせーもいる!」
「本当だ!」
「土井せんせー! リサさーん!」
いち早く反応したきり丸に乱太郎が続き、しんべえが伝蔵を無視してこちらに手を振ってくる。お前ら真面目に授業を受けろ! と半助が声を張り上げる横でリサが「がんばれー!」と手を振り返して応援しているのだから笑えない。
「はい! 土井先生! お二人はデートですか?」
ぴしっと綺麗に手を挙げた庄左ヱ門の質問に沈黙が落ちる。
どきどき。わくわく。そんな様子でこちらを見つめてくる生徒たちに混じって何故か伝蔵までもが楽しげにこちらを見ているのは何故だろうか。
「いや、私たちは……」
「いつ結婚するんですかー!?」
「だからっ、」
はい! はい! と次々に手を挙げて質問を重ねていく彼らに悪意は無いのだろう。
彼らの後ろでニヤニヤ笑い合うきり丸、乱太郎、しんべえには後で拳骨をお見舞いすることが決定した。
「はぁ……リサさんもちょっとは否定して――」
「土井せんせー、新婚旅行はどこにしましょうか」
「――は?」
何だって? と隣を振り返れば、楽しげに笑うリサの顔がすぐそこにあって。
予想以上に近かった顔に硬直している間に、するりと細い腕が半助の首に回る。頬に触れた柔らかな感触の正体に思い当たった瞬間、ぼんっと大きな音を上げて半助は意識を失った。
「うえっ!? ど、土井せんせー!!?」
し、死んじゃだめえええぇぇ!! 調子に乗ってごめんなさいいいいいい!!!
リサの叫び声が遥か遠くに聞こえた気がした。