「土井せんせー」
「んー?」
夏休み最終日。この休暇中ほぼ毎日続いたアルバイトも今日でおしまいだ。きり丸は学校が始まっても休みのたびにアルバイトをするのだろうが、半助の方は次の長期休暇まで本業の方に力を入れなければならない。
明日から始まる学校。一年は組の生徒たちは生半可な覚悟では相手が務まらない。気合を入れなければ。
背中でぐずる赤ん坊をあやしながらそんなことを考えていた半助は、不意に聞こえた声に振り返った。洗濯物を干しているきり丸の後ろ姿が見える。返事をしたのに振り向かず、用件を言うこともしないきり丸が何を思っているのか。次の言葉を待ちながら、半助は一定のリズムで身体を揺らした。背中から聞こえていた泣き声が徐々に小さくなっていく。
「……ぼく、リサさん好きっすよ」
たっぷり時間をかけて出てきたのは、いつか聞いたのと同じそれだった。
決してこちらを振り返ることをしないきり丸の顔が容易に想像出来て、半助は思わず苦笑を漏らす。
心地よい風が吹き抜けた。赤ん坊はいつの間にか眠っていて、洗濯物を伸ばして干すきり丸を眺めていた半助はそっと目を閉じた。
今頃リサは家で内職を頑張っているのだろう。今日中に終わらせると意気込んでいた彼女は、きっと違えることなくそれを果たしてみせるのだろう。よく働きよく笑う女だ。
「……先生、ぼく――」
「分かってるよ」
返事をしない半助に痺れを切らしたらしいきり丸が、縋るようにこちらを振り返った。ぐっと寄せられた眉だとか、不安に揺れる目だとか。あぁ、この子はこんなにも彼女に落ちてしまったのかと思ったが、悲しいことにその事実に怒りも悲しみも浮かばなかった。
遮るようにして返したそれに、きり丸の目が大きく見開く。え、と零れ落ちた声を半助の耳が拾った。
呆然とこちらを見上げるきり丸に洗濯物を指して「まだ残ってるぞ」と言えば、ぎこちなく返事をしたきり丸が慌てて仕事に戻る。
「なぁ、きり丸」
小さくて逞しい背中を見つめながら呼びかけると、振り返らないままのきり丸から返事がくる。
「きっと彼女は受け入れてもらえない」
「、」
洗濯物を伸ばしていた手がびくりと揺れ、綺麗に伸ばしたばかりの布がぐしゃりと歪んだ。
きり丸とて分かっているはずだ。それでも、と思ってしまう気持ちは分からないでもない。半助とてこの休暇中ずっと寝食を共にしてみてリサという人間を知っている。嘘をついているようには見えなかったし、自分たちと笑う彼女のそれは本物だった。
けれど、それでも。
「異世界なんて、そんなものを信じる人間はいないよ」
「……けど、でも、もしかしたら……っ、」
「だって、彼女を知ってるのは私とお前だけじゃないか」
「それなら、ぼくらが言えば良いじゃないすか! あの人は大丈夫だって、そしたら皆だって、」
「きり丸」
「っ、」
弾けたようにこちらを振り返ったきり丸は、不安に押し潰されてしまいそうな顔をしていて。語気を強めて名前を呼べば、必死に訴えていたきり丸の顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。ぐっと拳を握りしめて俯くきり丸は今にも泣きそうで、そんな顔をさせる程にきり丸の信頼を彼女が勝ち取ったことが嬉しくて、こんな顔をさせてしまう程にきり丸に近くなった彼女が憎らしい。
「全て、彼女次第だ」
半助の考えは変わらない。
明日、学園に戻る時に彼女も連れて行って、そこで彼女を学園長たちに会わせる。彼らは彼女を警戒するだろう。彼らだけではなく、生徒たちも同じことだ。異質な彼女を警戒して、時には危害を加えることもあるかもしれない。自分たちがどんなに声を張り上げようと、その未来は確実なものとなるのだろう。彼らの信頼を勝ち取れるかは、彼女次第なのだから。
けれど、と半助は思う。
「――大丈夫さ」
唇を噛みしめて涙を堪えるきり丸の頭に優しく手を置くと、不安げに揺れる濡れた瞳が半助を見上げた。金のこと以外で泣くなど、滅多にない子なのに。
「信じようじゃないか」
こんなにも信じさせてくれたリサを。
どうしようもなく大切な仲間たちを。
「せんせー……」
「ほら、早く終わらせないとリサさんがお腹空かせて待ってるぞ!」
「――はい!!」
ぐしぐしと袖で涙を拭いきり丸がいつもの笑みを浮かべる。そうだ。笑っていればいい。子どもには笑顔がよく似合う。お銭! お銭! と声を弾ませて洗濯物を干すきり丸を微笑ましく見つめていると、不意に強い力で引っ張られた。
「うぎゃああああぁぁ!!」
ずっと大人しくしてくれていたのに!
猛進していく猪に綱を引かれ、半助は転んでしまわないように必死になりながら走り続ける。
「せんせー! ご飯までに帰ってきてくださいねー!」
「きり丸ううぅぅ!! もう二度と手伝わないからなあああああぁぁぁぁ!!」
断末魔のような叫びはちゃんと届いただろうか。
四半刻後、アルバイトを終えてボロボロになりながら家に帰ると、この一ヶ月ですっかり家事が出来るようになったリサがきり丸と一緒に昼餉を作り終えて待ってくれていた。
「あ、お帰りなさい! お疲れ様でーす」
「せんせー遅いっすよー!」
きり丸には拳骨を一つ落とし、半助はリサに「ただいま」と返す。
どうか、明日以降もこの笑顔が続きますように。心の内でひっそりと願った半助は、味付けを失敗した奇妙な味の煮炊きと戦うことになるのだった。
その夜、リサと半助はきり丸を早々に寝かせて残り僅かとなった内職と戦っていた。
「すみません、こんなに遅くまで……」
「大丈夫ですよー。先生も大変ですねぇ、休みの時はいつもこんな感じなんでしょう?」
「ははっ……もう、慣れました、から……」
思えばきり丸をこの家に置いてから、長期休暇というものは学校がある時以上に疲れている気がする。毎日のように猪に引きずられて、子どもをあやして、内職で徹夜をして。あぁ、考えなければ良かった。気付きたくなかった。胃が痛い。う、と胃を押さえて前に屈むと、楽しげな笑い声が降ってくる。
「笑い事じゃありませんよ……」
「でも、先生は優しいですよね。ちゃんと手伝ってあげるんですから」
「しょうがないんですよ、そうしないと終わらないから」
捌ききれる量にしろと何度も言っているのに、きり丸は笑うだけで聞き入れてくれない。だーいじょうぶ! やれますって! なんて根拠のない自信は一体どこから来るのか。
「良いなぁきり丸。優しい先生で」
「リサさんも学校に通ってたんですか?」
「通ってたらもっと色々知ってたと思います」
確かに。笑うリサに苦笑を返しながら内心で頷いたのは内緒だ。
「変わってるんですよねぇ、私の家。向こうでも常識外れというか……」
「ほほー、つまりリサさん以外の人だったらもう少しまともだったと」
「ま、まともって何ですか! 私だって家の中では十分まともな部類で……!」
心外だと喚くリサに「しー」と人差し指を当てながら視線できり丸をさせば、ハッと息を呑み慌てて両手で口を塞いだリサが恨めしげに半助を睨む。
「土井せんせーは優しいようで優しくないですね」
「さっきと言ってること違いますよ」
「意地悪言うからですよ」
むすっとした顔で花作りを再開するリサに思わず笑みが溢れる。
一ヶ月という期間が長いのか短いのかは分からないが、寝食を共にし、こうして共同作業などをしているからか。遠慮というものが薄れてきたように思える。それはある意味では悪く、ある意味では良いものだと半助は考えるが、実際、このリサという女はどう考えているのだろうか。
「それにしても……一ヶ月も経っちゃいましたねぇ」
半助の心を呼んだかのようにリサが呟いた。その声は意外にも悲哀に満ちたものではなく、どちらかと言うとこの一ヶ月を振り返っているだけのように聞こえる。
「……帰りたいとは、思わないんですか?」
思い切って尋ねたそれは、この一ヶ月一度も聞くことが出来なかったことだ。
リサ自身が一体何を思っているのか。半助は知らない。無意識の内に知らない方が良いと思っていたのかもしれない。
「そうですねぇ……」
うーん、どうだろう。再び手を止めたリサは何もない宙を見上げてうーん、うーんと首を傾げている。
何故そんなに悩むのか。普通ならば家族に会いたいと願うはずだ。生きているのなら会いたいと願うのが普通ではないのだろうか。それとも、これも『世界が違うから仕方ない』事柄なのだろうか。向こうの世界ではいつ死ぬかも分からないから、いつだって会えるから、そういう事なのだろうか。
遠い昔、二度と会えなくなってしまった両親が不意に浮かんで消えた。
「帰りたい、ような気もします」
「それほど強く願ってはいないと?」
「うーん、何て言うか……その、お、怒らないで聞いてくださいね?」
戸惑うリサをじっと見つめていれば、不安の色を映した目が窺うように半助を見つめ返してきた。そして言われたのは怒らないで欲しいという懇願。どういう意味だと訝しむ半助に、忙しなく視線を彷徨わせていたリサは照れ臭そうに頬を掻いてへらりと笑った。
「あの、私、こういう暮らしをしたことがなくて……家族はいましたけど、ちょっと普通じゃないというか……こんな風に一緒にお花を作ったりしなかったし、一緒にご飯を作ったこともなくて」
情けなく眉を下げて笑うリサは半助を見ようとはしない。
手元の花だけをじっと見つめて語られるのは、この一ヶ月聞いたことのないリサ自身の話だった。
「ご飯を一緒に食べることはあったけど、テーブルがやたら広くて、皆、すごく遠くて……会話なんて家業に関することばっかりで全然つまらなくて……だから、その……すごく、楽しいんです」
見知らぬ世界に放り出されて、勝手の違う生活を強いられて。毎日朝から晩までこんな単調な作業を強いられて。知ってる人など一人もいなくて。怖くないはずがない。もしかしたらもう二度と戻れないかもしれないのだから。それなのにこの女は楽しいと言う。
「いつ戻れるか分からないから、せっかくだから思う存分楽しんじゃおうかな、と、思って……毎日とても楽しんでますごめんなさい」
迷惑かけてるのに楽しんでごめんなさいすみませんすみません反省してますでも楽しいですすみません!
床にゴンと頭を打ち付けて土下座をするリサに、半助は声を上げて笑った。
「迷惑なんかじゃありませんよ。そりゃ最初は混乱しましたけど、毎日助かってますし……それに、楽しいのは私たちも同じですから」
「……怒ってませんか?」
「怒ってません」
本当に?
本当に
本当の本当に?
疑り深い人ですねぇ、本当の本当にです
何度も言い聞かせてやれば、ぱぁっと満面に笑みを浮かべたリサは嬉しそうにはにかみながら新しい花を作り始めた。分かりやす過ぎるその反応に思わず笑みを零した半助は、深呼吸をすると共に背筋を正してリサをじっと見つめた。
「リサさん」
「はい?」
「私からも……話があります」
真面目な話だとすぐに察したらしいリサもまた、居住まいを正して頷いた。
いつも暢気に笑っているように見えて、その実、物事を冷静に考えられる人間なのだと気付いたのは、一体いつだっただろうか。
微かに聞こえるきり丸の寝息を聞きながら、半助は静かに口を開いた。