おねしょ


どうしよう。
リサは顔面蒼白でその場に立ち尽くしていた。不安げに揺れる目には既に膜が張っていて、時折助けを求めるかのように室内を見回すが誰もいない。リサ一人だ。

どうしよう。
微かに震える手をぎゅっと胸の前で握り締めて、リサは身体を震わせた。




”明日は朝から船長の検診なのよ”

だから明日は頑張って起きてちょうだいね。
昨日の夜、申し訳なさそうに頭を撫でながらそう言ったエリザに「大丈夫」と胸を張って答えた。大丈夫。起きて一人だったとしても怖くない。泣いたりもしない。一人で着替えて食堂まで行ける。大丈夫だ。

そう思っていたし、エリザも大丈夫だろうと考えてくれていたのだろう。
いいこね、と優しく頬を撫でて額にキスを落としてくれた。

布団に入って、
寝て、
夜が明けて、
そして、リサは目を覚ました。

時計を見ればいつも起きる時間よりほんの少しばかり遅い。寝坊してしまった。
けれど、まぁ問題はあるまい。朝食の時間内に食堂に行けば良いのだから。

問題はそこではない。
そこではないのだ。

おそるおそる見下ろして、唇を噛みしめる。
一体これをどうすれば良いのか。
エリザたちはまだ帰って来ない。助けを求める相手がいない。

せめて、サッチがここにいてくれれば。いつも優しい兄の笑顔を思い浮かべれば、更に涙がこみ上げてくる。朝食に間に合わないなんてことになれば誰かが起こしに来てくれるだろう。エリザのことだ、そこは抜かりなく頼んでくれているだろうから。

問題は、誰が来てくれるかだ。

エリザが頼む相手など、何となく想像出来る。
今までもそうだったのだ。今回だけサッチに変わるはずもあるまい。
そんなリサの考えを読んだかのように、コンコン。無常にもノックの音が響く。ぴっ、と思わず身を竦めてしまったのは仕方のないことだ。

「おい、いつまで寝てんだ」

返事をする間もなく開け放たれたドアから入って来たのは、やはりこの人で。

「何だ、起きてたのかよい。とっとと着替えて――」

マルコの言葉が途切れた。

涙を浮かべていることに気付いたのだろうか――気付いただろう、驚いた拍子にぼろぼろと零れてしまったのだから。
パジャマが濡れていることに気付いたのだろうか――気付いただろう、窓から差し込む朝陽がリサの姿を照らしているのだから。
微かな異臭に気付いたのだろうか――これはもう、気付かないはずがない。

「………はぁ」

大きな大きな溜息に、リサは今度こそ大きく身体を揺らした。

おこられる。
こわい。
どなられる。
なぐられるかもしれない。

不安はどんどん大きくなってリサを襲い、微かだった震えは目に見えるほどガタガタと大きくなる。戸口に立つ彼の姿を直視出来ない。かと言って視線を落とすと自身の濡れたパジャマが目に入り、涙は留まるどころか更に溢れ出る始末だ。

「ひっ、う、うぇ……」
「泣くんじゃねぇ」

本格的に泣き始めた途端、飛んでくる鋭い声。
それがマルコの不機嫌さを物語っていて。怖くて。ただただ怖くて。

「ごめ、なざい……」

う゛あ゛あぁぁぁぁん!!
ちょ、な、おい!

泣き止まなければと自分に言い聞かせながら紡いだ謝罪の言葉は、けれどそれは更に自分を追い詰めるだけでしかなく。堪え切れず大声で泣き出したリサに、マルコは眠たげな細い目を最大限見開き、泣き止ませることも出来ぬままただただオロオロするしかなかった。




「大変だねぇ、お前も」

くつくつと笑うイゾウにマルコは不機嫌に顔を顰めた。舌打ちで返せば煙管を口元へ運びながら隣に立ったイゾウが、マルコと同じ方向へと視線を向けてまたくつりと笑う。

「お前が代われ」
「お前さんが適任だよ」

ちっ。さっきよりも更に大きく舌を打つマルコの視線の先では、リサがぐすぐすと鼻を啜りながらシーツを洗濯している。年季の入った洗濯板を持つその小さな手は何とも頼りなく、彼女の周りを囲う兄弟たちがハラハラしながらそれを見守っていた。

「仕方ないわよ、まだ小さいんだもの」

カルテを手にやって来たエリザが、微笑ましそうにリサたちを見つめながら笑う。実の子どもではないというのに。得体の知れない子どもだというのに。まるで本当の娘を見つめているかのようなそれに、マルコは苦々しい顔になりながら再びリサの方へと視線を戻した。
視線の先では、ついに我慢出来なくなったのかサッチがリサの隣に並んでシーツを洗っている。

情けない。
音もなく漏らした独り言が拾われたのだろうか。エリザの細い手がマルコの耳を引っ張った。

「っ、何すんだよい」
「今朝のアンタだって、十分情けない顔してたわよ」
「………!!」

痛いところを突かれてぐっと言葉に詰まるマルコを一瞥し、エリザはくすりと笑みを零した。

リサの泣き声がする――そうクルーたちが訴えにきたのは、白ひげの検診を始めて少し経った頃だった。ナースの部屋がある区画はクルーたちの出入りが禁じられている。許しを得た者だけがそこに行くことが許されるのだ。だからこそ、リサの泣き声を聞いても駆けつけてやることが出来なかったクルーたちは、大慌てで船長室へ向かいナースたちに助けを求めたのだ。
船医から許しを得て自室に戻れば、パジャマの下をぐっしょり濡らした状態で大泣きするリサと、そんなリサを前に必死に泣き止めと訴えるマルコの姿があった。

助けてくれと言わんばかりの情けないマルコの姿を思い出して笑ったエリザに、マルコから恨めしげな視線が飛んでくる。

「あら、なぁに?」
「、俺はっ」
「エリザ!!」

言いかけたマルコの声を遮るようにリサの声が飛んできた。振り返れば、洗ったばかりのシーツを頭上に掲げながら――実際にはサッチが持ち上げ、リサはただ手を添えているだけだが――リサが満面の笑みをこちらに向けている。

「きれいになった!」
「まぁ! よく頑張ったわね、偉いわ」

褒めてやれば、きゃあ!と嬉しそうな声を上げたリサがサッチと共に甲板を駆けていく。シーツを干しに行ったのだろう。向こうから「みず! つめたい!」なんて声とサッチの笑い声が聞こえてくる。微笑ましい限りだ。

「寝小便垂れるようなガキなんざ、とっとと下ろしちまえば良いんだよい」

不貞腐れたような声。
咄嗟に振り返ろうとして、けれどエリザは何とか思い止まり密かに笑いを噛み殺した。
何となく見ない方が良いような気がして。それがマルコに自身の器の小ささを自覚させるのだと気付きもせずに。

「………俺は、認めねぇ」

本心じゃないくせに。そう口にすることを止めたのは正しい判断だ。
苦い顔で立ち去るマルコの背中を見送り、エリザとイゾウは顔を見合わせて肩を竦めるのだった。