「ほーれほれほれ。リサー、『あーん』は?」
ズイと目の前に突き出されたフォークに突き刺さっている『それ』をチラリと見てリサはそっぽを向いた。『それ』から必死に目を逸らすリサの額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「ほーら、美味いぞー?」
「ほーれほれ」とサッチがリサの顔の前でフォークを揺らすが、リサは断固として『それ』を見ようとはしない。
「それ、きらい」
「むり」と呟いてきゅっと唇を引き結ぶ。そんなリサにサッチは尚も食らいついていく。既に十分近く続いているこのやり取りに、最初は揃ってリサに食べさせようとしていたクルー達も若干諦めモードだ。
「サッチよォ、もう諦めたらどうだ?」
「駄目だ! 好き嫌いはいけません!」
呆れたように呼び掛けるラクヨウにぴしゃりと言い放つと、サッチは既に冷めつつある『それ』をリサに差し出し続けた。
「リサ、一口で良いから」
懇願するようなサッチの言葉に、眉を八の字にしながらリサは再び視線をサッチへと戻す。困らせたい訳ではないが、フォークに突き刺さった『それ』を見てしまえばやはり無理だと思わざるを得なかった。
「なす、きらい」
「むり」と呟いて再びぷいと顔を背けたリサに、サッチは落胆の色を隠せず大きな溜息を溢した。子どもに嫌いなものを食べさせるという事はこんなにも難しいのかと思い知ったが、やはりここで諦める訳にはいかないのだ。コックとして、船で生きる者として、きちんと教えなければならない。そう思うのだが、どうすれば上手く教えられるのかが分からない。お手上げ状態だった。
さて、どうしたものか。悶々と考えながらフォークに突き刺さった茄子を自らの口の中に放り込んだその時、誰かがリサの元へとやって来たのが見えた。チラリと視線を移したサッチは、その人物を確認するとすぐに苦い顔でこめかみを掻いた。
「食えよい」
ビクリとリサの肩が揺れるのが見えた。そんな威圧感たっぷりに言ったら怖がらせるだけだろうが!と心の中で叫んでみるが、声に出す事は出来なかった。
「食えっつってんだ」
「、」
頭上から降ってくる声に、応える事も顔を上げる事も出来ないままリサは膝の上で拳を握り締めている。チラリと目の前の皿を見遣るが、やはり嫌なものは嫌らしい。リサが動くことはなかった。
「――そうかい」
思わず「おいおい」と声をあ上げたくなる程にわざとらしい溜息の直後、マルコの大きな手がリサの目の前のトレイを持ち上げる。トレイを追って顔を上げたリサは、冷めた目で自分を見下ろすマルコとかち合い肩を揺らした。
「だったら何も食うんじゃねェ」
フンと鼻を鳴らしてマルコがリサの夕食を持って行ってしまう。「あ」と小さな声を漏らしたリサは、けれどマルコを呼び止める事も出来ず、目に溜まった涙を必死に零すまいと堪えて座り続ける事しか出来なかった。
リサの夕食を下げたマルコは自分の夕食を片手に戻ってきた。俯いたままのリサの前で立ち止まると、リサを見下ろす目と同じくらい冷たい声を発する。
「邪魔だ、とっとと出てけよい」
刺々しい言葉にいとも容易く決壊した涙がぼろぼろと溢れ、膝の上で震える拳へ落ちたのをサッチは見た。徐に立ち上がったリサが何も言わず俯いたままトボトボと食堂を去っていく。僅かに震える背中は更に小さく見えるが、誰も声をかける事は出来なかった。
「何も泣かせなくてもよ……」
リサが食堂を去り、目の前に座って食事を始めたマルコにサッチは唇を尖らせながらぼやいた。
「テメェらがそうやって甘やかしてるから、我侭で甘ったれたクソガキになってんだろうが」
「まだ八歳だぞ? 親も家族同然に暮らしてた奴らも皆殺されちまったんだ、ちょっとくらい甘やかしたって――」
「俺ァ、アイツを甘やかす気はねェよい」
きっぱり言い放つと、マルコはそれ以上何も言わず料理を口へと運ぶ。相変わらず唇を尖らせていたサッチは、けれど何も言わずに食事を再開した。
「言っとくが、アイツに何も持ってくんじゃねェぞい!」
あっという間に食事を終えたマルコが立ち上がりながら食堂中に聞こえるように言い放つ。あちこちで誰かがぎくりと肩を強ばらせているのが見えた。どうやら、そのつもりだったらしい。舌打ちを一つ零したマルコは、トレイを持つと食堂中を睨み回した。
「好き嫌いが許されんのは陸で生きる奴らだけだ」
食堂を去ろうとするマルコに、誰も何も言う事はなかった。
ぐーきゅるるるる。数時間前から鳴り止まない空腹を訴える音にリサは溜息を零した。
食堂を追い出されてから数時間。クルー達ももう寝ている時分だった。空腹を忘れる為にと風呂に入る事も諦めて布団に潜り込んだリサだったが、実際に眠れたのは一、二時間程で、空腹で目が覚めてしまってからはただただ苦しい時間を送っている。
「おなか、へった……」
こんな事なら食べれば良かったと後悔しても遅い。それに、いざ目の前に出されても食べられる自信が無い。嫌いなものは嫌いなのだ。怒られても、食事抜きにされても、無理だと思ったものを食べる事なんて出来なかった。大人になれば嫌いな食べ物が無くなるのだろうか。サッチ達には嫌いな食べ物は無いのだろうか。そんな事を考え始めたリサは、静まり返った室内に響いた空腹音に溜息を零した。何だか泣きたい気分だ。
「リサ、眠れないの?」
「無理もないわよ、夕飯をもらえなかったんだから……」
同室のナース達がのそのそと起き上がる。起こしてしまったのだと申し訳なくなり「ごめんなさい」と謝罪の言葉を口にすれば、気になって最初から寝ていなかったのだと返ってくる。益々もって申し訳ない。
「私、飴なら持ってるけど……」
ナースの一人の呟きにリサはパッと顔を上げた。期待に輝いた顔は、けれど、飴を探そうとバッグを漁るナースを止めたエリザの言葉によってすぐに曇った。
「駄目よ。マルコが止めた意味が無いわ」
「でも、エリザ……」
「勿論、食べさせてあげたいのは私も同じよ。けど、それじゃリサの為にならないもの」
いつもリサに優しくしてくれるエリザがぴしゃりと言い放つ。ナースが渋々と飴をバッグに戻すのを見ていたリサは、きゅっと唇を噛み締めて俯いた。再び空腹を訴える音が響いた。
どうしてくれないんだろう。どうして誰も味方してくれないんだろう。エリザは本当は私の事が嫌いなんだろうか。いつも優しくしてくれるのに、笑ってくれるのに、どうして今日は優しくしてくれないんだろう。
この部屋に味方はいない。この部屋にいたくない。そう感じたリサは、じわじわと滲んだ涙を袖で拭うとベッドから降りて扉へと向かった。
「おみず、もらってくる」
「一緒に行こうか?」
たった今、飴をあげてはいけないと叱ったくせに、エリザが優しい声音で申し出る。もう訳が分からない。いつもなら喜んで頷くリサだったが、この時ばかりはエリザと一緒にいたくはなかった。
「いらない、ひとりでいく」
「……そう、暗いから気を付けてね」
気を遣ってかけてくれたエリザの声は、何処か寂しげだった。
部屋を出たリサは、いつもより薄暗い廊下に怯えながら食堂へと向かった。いつもなら誰かにすれ違うのに、この時ばかりは誰も通らないし何も聞こえない。皆すっかり寝静まっているようだ。
ペタペタというリサの足音と、きゅるるるという空腹を訴える音が廊下に響く。それが何だか不気味で怖くなり、リサは足早に食堂へと急いだ。
僅かに開かれた食堂からは光が溢れていて、サッチか誰かがいるのかもしれないとリサは安堵の息を漏らして食堂へ入った。
けれど、そこにいたのはサッチではなかった。
「……何してんだよい、こんな時間に」
そこにいたのは、リサの食事を取り上げた張本人、マルコだった。
「お、おみずを……」
躊躇いがちに答えた直後、静かな食堂に鳴り響く空腹音。咄嗟に腹を押さえたリサは俯き唇を噛み締めた。既に限界を迎えているらしい腹は何度も何度も空腹を訴えてくる。どうにか止ませようと拳でぐりぐりと腹を押してみるが、止む気配は無い。じわりと涙が滲んだ。
そんなリサを黙って見ていたマルコが、やがて呆れたような溜息を吐いて立ち上がる。ビクリと身体を震わせたリサを無視して厨房へと消えていった。水を飲めばこの空腹も少しマシになるかもしれない――そう思ってここに来たのに、リサは今すぐ部屋に戻りたくて仕方なかった。じわじわと滲み出る涙を袖で拭うが、その場から動くことは出来なかった。
ふと、香ばしい匂いがリサの鼻腔を擽った。パッと顔を上げてみれば、それは厨房からやってきているようだった。ジュージューという美味しそうな音まで聞こえてくる。無意識に唾を飲み込んだ。もしかしたら、何か食べさせてくれるのかもしれない。いつも怒ってばかりで自分を嫌っている人だけど、本当は優しい人なのかもしれない。淡い期待を胸に抱き厨房へ続く通路を見つめること数分、食堂に戻って来たマルコの手には小さな丼があった。
「来いよい」
やっぱり食べさせてくれるんだ。この人は優しい人なんだ。期待に顔を綻ばせ、促されるままにマルコに歩み寄ったリサは、テーブルに置かれた『それ』を見た瞬間に顔を曇らせた。
「これなら食わせてやるよい」
リサの見つめる丼、ご飯の上にはリサがどうしても食べる事が出来なかった茄子と挽肉の炒め物が載っていた。
期待していただけに、落胆の度合いは大きかった。やっぱりこの人は私が嫌いなんだ。嫌いなものを食べさせようとするのだから。唇を噛み締めたリサは、再び空腹を訴えるお腹に益々眉を寄せた。
「どうしても食いてェってんなら、これを食え。お前の分だ」
「………」
「それが嫌だってんなら、お前に食わせるモンは何もねェよい」
グッと拳を握り締める。相変わらず丼からは美味しそうな匂いが漂ってくるが、それはリサの大嫌いな食べ物なのだ。まるで「食べろ」と言っているかのように、腹が一際大きな音を鳴らした。
食べたくない。けれどお腹が空いた。美味しそうな匂いがする。けれど嫌いな食べ物なのだ。美味しくない。こんなもの食べたくない。でも、美味しそうな匂い。
葛藤するリサに止めを刺すかのように腹が鳴る。ぐーぎゅるるる。その音で漸く観念したリサは、おそるおそる席に着くと小さな手で箸を握り締めた。じっと茄子を睨み付けてみても消える訳ではない。お腹が減って仕方がない。嫌いだから、なんて言っていられなかった。
反対の手で丼を押さえ、躊躇いがちに茄子を掴む。挑むように茄子を睨み付けたリサは、覚悟を決めるとぎゅっと目を瞑り口の中へと押し込んだ。
最後に茄子を食べたのはいつだっただろうか。もうどんな味かも覚えていない。ただ『美味しくない』という記憶がリサの頭にこびり付いていた――はずだった。
「、おいしい……」
サッチ特製のタレで味付けられた茄子は、リサの頭の中にこびり付いていた『美味しくない』という記憶をいとも容易く消し去ってしまった。一つ、また一つと茄子を口に運びその味を確かめる。何度確かめても、美味しかった。一体どういう事だろうかと首を傾げながら、リサはご飯を掻っ込んだ。無言で見下ろしていたマルコが厨房から水を持ってきてくれていた事にも気付かなかった。
「美味ェだろうが」
テーブルにグラスを置きながらマルコが問いかける。いつの間にか溢れていた涙を拭う事もしないままリサは頷いた。
「おいじい、でず」
「海で生きると決めた以上、好き嫌いなんて言ってられねェんだよい。コック達が栄養を考えて一生懸命作ってんだ、無駄にしちゃならねぇ」
「ごべ、なざい゛……」
頬を伝う涙をどうする事も出来ずに、リサは小さな丼に盛られたご飯をあっという間に平らげた。マルコが持ってきてくれた水を一気に飲み干し、ホッと安堵の息を吐き出すと途端に眠気が襲ってくる。空腹が満たされた事と泣いた事が原因だろうか。眠たげに目を擦るリサに僅かに表情を穏やかにしたマルコは、しかしすぐにいつもの仏頂面に戻すと空になった丼とグラスを持って厨房へと向かった。食器をシンクに置いて食堂に戻ると、ついさっきまで起きていたはずのリサはテーブルに突っ伏し、既に夢の世界へと旅立っていた。
「ったく……面倒なガキだよい」
呆れた顔でリサを見下ろしたマルコは、嫌そうな溜息を吐くとその小さな身体を抱き上げて食堂を後にした。
部屋に連れて行くとエリザ達は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでリサを受け取ってくれた。
「貴方の方が向いてるんじゃない? 子育て」
既に食堂に向かって歩き始めていたマルコは、扉が閉まる直前に聞こえたエリザの声に勢いよく振り返ったが、そこにはもう誰もいない。舌打ちを一つ零し食堂へと戻るしかなかった。
数時間後、朝食の準備をしようと食堂にやって来たサッチ達は、シンクに置かれたリサ専用の小さな丼と箸、グラスを見て一瞬で青褪める事となる。
「あああ、アイツ……まさか……食ったのか……!?」
茄子を食べた事は喜ばしい。けれど、何も食べるなと言われているのに夜中に盗み食いをしたとなればマルコが黙っていない。また叱られてしまうのではないか。また泣いてしまうのではないか。下手したら蹴り飛ばされるかもしれない。
「どど、どうしよう、どうしよう……!」
「おおお、俺に聞くなよ!」
「と、とにかく、これはアイツには内緒にしといた方が良いよな!?」
「たりめェだ! リサが死んじまう!!」
「「「とにかく証拠隠滅だ!!」」」
慌てて食器を洗ったサッチ達は、これで一安心だと朝食の準備に取り掛かった。
それから更に数時間後、朝食にやって来たリサにこっそり近付いたサッチは、マルコに聞こえないように気を配りながらリサに問いかけた。
「なぁ、リサ……お前………もしかして、食ったのか?」
「うん」
悪びれる様子もなくあっさり頷いたリサに、サッチだけでなくリサとサッチを遠くから見守っていたコック達も一瞬で真っ青になる。リサが独りで出来るはずがない。誰か手を貸した輩がいるはずだ。どうにかしてマルコからその人物を守らなければ。そんな事を考えていたサッチ達に気付く事なく、リサはへにゃりと表情を緩めた。
「マルコたいちょうがたべさせてくれた」
「「「へ?」」」
思いがけない名前にサッチ達が目を点にする。サッチ達の動揺に気付かないままのリサは、サッチの服の裾をクイと引っ張ると深く頭を下げた。
「すききらいして、ごめんなさい」
「え? あ、いや……」
「あのね、きのうのごはん、すごくおいしかった」
はにかむリサに、サッチ達は一体何がどうなっているのか分からないままマルコの方を見た。声が聞こえていて無視しているのか聞こえていないのか、マルコは我関せずと言った様子で朝食を平らげている。
「よく分かんねェが……一件落着、か?」
そうだ、よく分からないがリサが食べてくれたなら喜ばしい限りだ。
「よーし、リサ! 今日のおやつはお前の食いてェモンにしてやるからな! 何が食いてェんだ?」
「なす!!」
「「「え」」」
元気良く答えたリサに、コック一同は頭を悩ませる事となる。