緩やかに上下する海面を朽ちかけたベニヤ板が漂う。ベニヤ板に必死にしがみ付きながら、リサは口の中に入り込む塩辛い液体が涙なのか海水なのか判別出来ずにいた。
何処を見渡しても青い空と青い海。気が狂いそうになりながら、それでも必死に薄い板にしがみ付いて耐えていた。
あれから何時間経っただろうか。まだ高かった陽は既に水平線に半分姿を隠している。心身共に疲れきっていたリサは、何度も板からずり落ちそうになっては慌てて体勢を立て直していた。時折、板がひっくり返って海に落とされてしまうと、海面に顔を出した時には板が数メートルも離れている事があった。そのたびに必死に水中で水を掻いて追い掛けていたのだが、その所為で現在リサのいる場所は落とされた場所より南東の方角にあった。
「うぅ、うぅぅ……」
体力も限界だった。全身が休息を訴えている。だが気を抜いてしまえばすぐに板から指がずり落ちてしまう。リサは顔を歪め涙を流しながらただただ必死に板にしがみ付いていた。
太陽がその姿を完全に隠し切る寸前、必死に辺りを見回していたリサの視界に船らしきものが映った。
助かった。リサは助けを呼ぼうと口を開いたが、息を吸うと同時に海水が一気に口の中に入り込んで盛大に咽せた。
「げほっ、ごほっ、がはっ……」
海水に浸かってびしょ濡れの袖で顔を拭き、何度も何度も助けを呼ぼうと試みるも悉く失敗するばかり。何とか片手を上げて左右に振ってみても、リサの短い腕をいくら振った所で高が知れている。
「あっ、」
船はリサに気付いた素振りを見せずに、リサのいる方とは別の方角へ向かって行ってしまった。
「まっで……、うぶっ」
嫌だ。死にたくない。助けて。ママ。死にたくない。助けて。パパ。誰か。誰か。助けて。
「だずげで……っ、がぼっ………!だ、だずげで……!!」
どんなに必死に叫んでも届かない。船が止まる事はなかった。
遠ざかる船をぼんやりと見つめながら、助けを呼ぶ力すら失ったリサはただただ板にしがみ付いて波に揺られていた。
瞼が重くなっていく。力が入らない。あぁ、もうだめだ。
そう思った時だった。
僅かばかり開かれたリサの目に映っていた薄暗い空が、突然光を発した。ゆっくりと重い瞼を上げれば、海面に映る幻想的な青い光。
「、きれい……」
ぽつりと呟いたリサの手が板からずり落ちる。海の中へ沈みながら、リサは神秘的な青い光が射す海面を見つめ意識を手放した。
最初に感じたのは全身の気怠さだった。瞼を上げる事すら億劫で、鼻で息を吸うたびに薬品のような臭いがしてリサは眉を寄せた。風邪を引けばすぐに注射を打たれていた所為か、医務室は苦手な場所だった。
ここは夢の中だろうか。あぁ、でも死んだのなら天国かもしれない。医務室だって構わない。注射だって大人しく受けよう。また皆に会えるのならば。
そんな事をぼんやりと考えていたリサの耳に、扉が開閉する音が届いた。コツコツと聞こえる足音は確実にこちらに向かっていて、すぐ近くで止まったかと思うとシャッとカーテンが引かれる音が聞こえた。
「まだ寝てるみたいね」
独り言のように呟かれた声は聞き覚えのないもので、リサはそっと目を開けた。自分の知っている医務室にはこんな短いスカートの女性はいなかった。こんなに美しい女性はいなかった。ここが天国なら、この人は天使だろうか。羽は生えていないようだ。
「あら、起きてたの?」
優しい微笑みと共に伸びてきた手がリサの額に触れる。
「まだ少し熱があるみたいね」
「ね、つ……」
紡いだ言葉は声にならず、掠れた息だけが口から漏れた。白衣を身に纏った女性はそんなリサに優しく微笑むと、額に乗せた手をゆっくりと目へとずらした。
「もう少し寝てなさい」
視界が手で覆われていくにつれて、瞼がゆっくり下がっていく。意識を手放す直前、女性の「おやすみなさい」という温かい声が聞こえた気がした。
リサが再び意識を手放したのを確認した女性は、すうすうと安らかに眠るリサの頬を愛おしげに撫でた。
「エリザ」
開かれた戸にコンと控えめなノックをしながら入って来た男に呼ばれ、エリザは振り返る。
「あらマルコ、どうしたの?」
「起きたかい」
「一瞬ね。熱も下がってないし、意識も朦朧としてるみたいだったからまた寝かせたわ。ねぇ、見て」
エリザに促されてマルコがリサのベッドへと歩み寄る。真っ白なベッドに眠る小さな少女は安らかな寝息を立てて眠っていた。
「子どもの寝顔って可愛いわよね。天使みたいでしょう?」
「そうかい?」
安らかな寝息を立てて眠ってはいるが、泣いた所為で目は腫れているし目の下には隈らしきものも見える。眠り方は子ども特有の愛らしいものだったが、こんなに疲れきった顔が可愛いとはとても思えない。
それを口にする事はなかったが、どうやら先の返事でエリザにはバレてしまったのだろう。咎めるような視線を頂戴したマルコは肩を竦めてリサから視線を逸らしエリザへ向き合った。
「オヤジから伝言だよい。コイツが起きたら連れて来いってさ」
「話が出来る状態になったら連れて行くわって伝えて頂戴」
「まさかそれまでずっと面倒見る気か? こんな得体の知れねェガキを?」
「あら、その得体の知れねェガキ見つけてきたのは誰だったかしら?」
グ、と言葉を詰めたマルコに微笑み、エリザはリサの眠るベッドにカーテンを引いた。
「どちらにしろ、次の島までまだあるんだもの。拾った以上はちゃんと世話をしなきゃね?」
「………俺ァ、ガキは苦手なんだよい」
「構わないわ、私が見るもの」
「そりゃ助かるよい。その調子でオヤジの事も説得してくれ」
「それは拾ってきた人の責任でしょう。さっさと行って来なさい」
素っ気ない返事に舌打ちを一つ零し、頭を掻きながらマルコは医務室を出て行った。
「拾わなけりゃ良かったよい」
ブツブツ零しながらオヤジの元へ向かうマルコに、エリザはクスクスと笑うのだった。