出港準備が整い、とうとう島を出る時がやってきた。
食堂の隅っこでずっと膝を抱えていた私は、サッチさんに連行されて甲板へと出てきた。マルコさんはどうなったんだろう。ERRORを気遣って医務室には行ってないはずだから、今も酷い状態で転がっているんだろうか。
ラクヨウさんがあんなに怒ったの初めて見た。他の皆も凄く怒ってたし、正直とんでもなく怖かった。
ボロボロになっていくマルコさんも、怒り狂う皆も、何もかもが怖かった。オヤジ様が止めてくれれば良いのに、止めることも声をかけることもしてくれなかった。
私はどうしたら良いのか分からなくて、怖くて、ボロボロになっていくマルコさんも怒り狂う皆も見たくなくて逃げた。
「ほら、この島もこれで見納めだぞ」
「いいよ……こんな島、見たくない」
いい思い出なんて一つもない。もう二度と来たくない。そう続ける私の頭を撫でたサッチさんは困ったように笑っている。どうして笑えるんだろう、こんな状態なのに。
「嫌な気持ちは全部この島に置いてこうぜ。じゃねぇとこれからの航海がつまんねぇモンになっちまうだろ」
「この島に……」
「ただでさえウジウジした奴らばっかなんだ。俺らくらいは明るくいようぜ」
「でも……でも、無理だよ。ERRORもマルコさんも……リサだって笑ってるけど無理してるの分かるし……」
「あのなぁ。リサちゃんが無理してでも笑ってる理由分かるか?」
分かんない。分かるわけない。リサの気持ちなんて私には全然分かんない。
どうしてマルコさんと普通に接することが出来てたんだろう。どうしてERRORとマルコさんと笑っていられたんだろう。私には何も分かんないよ。
「俺らに笑ってて欲しいからだろうが」
バカタミ。そう言って私の額を弾いたサッチさんが笑う。
「リサちゃんまで暗くしてたら、お前もっと落ち込むだろ。マルコだってずっと気に病むからって笑ってんだ。ERRORちゃんのことが心配でも、マルコのことが心配でも、お前のことが心配でも」
「でも、そんなの……だってリサだって辛いんじゃないの? 私はちゃんと言って欲しいよ。もっとちゃんと全部教えて欲しい」
辛いなら私も一緒に泣きたいし、怒ってるなら私も一緒に怒りたい。それは私のワガママなのかな。リサはそれを許してはくれないのかな。
「そう思うんなら、ちゃんとそう言ってやれよ。あの子あれで意外とおバカだから、放っとくと一人で無理しちまうんだよ」
「リサが?」
「そ」
おバカ。リサが。いつだってニコニコ笑ってて大人びてるのに。いや、大人なんだけど。
「ん? あれ誰だ?」
島を眺めていたクルーの一人が不意に声を上げた。つられてそちらを見れば、見覚えのある女の人が立っている。胸の前で頼りなさげに手を組んだその人は、モビーの端から端までをキョロキョロと見回している。まるで誰かを探しているかのように。
「あの人……」
「タミ知ってんのか?」
「リサの、お母さん……たぶん」
ハッと息を呑んだサッチさんが慌てた様子で船内に駆けていく。
忙しなく視線を巡らせていた女の人と目が合った。あ。目を見開いた女の人が一歩前に出て、でも開きかけた口からは何も出てこない。何を言おうか迷っているのか、彷徨う視線が徐々に落ちていく。とうとう俯いてしまったその人に咄嗟に私は声をかけた。
「待ってて!」
弾かれたように顔を上げた女の人が縋るように私を見つめる。
「今、来るから!」
「タミ! まだいるか!?」
タイミングばっちりだ。目を丸くするリサを抱きかかえて戻ってきたサッチさんが私の横にリサを下ろすと、戸惑いを顕にサッチさんと私とを見たリサが困ったように首を傾げる。
「あの、どうしたんですか?」
「リサ、あそこ!」
指した先にあの人を見つけたリサが小さく息を呑んだ。
「リサちゃんに会いに来たんだろ? 行って来いよ」
苦い顔のリサをタラップへと促すサッチさん。最初の一、二歩は躊躇いがちだったけど、腹を括ったのかしっかりとした足取りでリサがタラップを降りていく。
風の悪戯か、大きくもない二人の会話が静まり返った甲板に運ばれてきた。
「…………恨み言を言いに来たんですか」
リサの静かな声。優しさの欠片もない冷めた声だった。
「それとも私を殺しに? 私がこの島に来たせいで貴方の大切な人が死んでしまったんですから、恨まれて当然ですね」
違うよ。そんなんじゃない。だってその人はずっと後悔してた。
思わず声を上げようとした私をサッチさんが止める。首を振って何もするなと視線で私に訴えてくる。
どうして。だってその人は十分過ぎるほど後悔してるのに。傷ついてるのに。
「サッチさん、でも」
「駄目だ」
「でも、あの人ずっと――」
「それでもだ。……文句くらい言わせてやれよ。あの母親はリサちゃんに恨まれて当然のことをした。どんだけ後悔していようが、苦しんでいようが、文句を聞く義務があるんだよ」
なぁマルコ。いつの間にか背後にいたマルコさんにサッチさんが声をかける。ぱちりと目が合って思わず顔を背けてしまったけど、マルコさんは私に何も言わない。あちこちに痣を作って、ボロボロで、でもそれは義務だってサッチさんが言う。
あの人も、マルコさんも、受け入れる義務があるんだって。
「……貴方が私を恨むのも無理ないわ。私はそれだけのことを貴方にしたんだもの」
後悔に満ちたあの人の声。リサの表情は変わらない。まるで感情をどこかに忘れてしまったかのよう。人形のような子だと言っていたあの人の言葉の意味がやっと分かった。
ずっとそうやって生きてきたんだね、リサは。
苦しいも辛いも何もかも全部考えないようにして、人形のように親に振り回されて。
「マルコさんが、助けてあげたんだね」
思わず漏れた声。背後で息を呑む音が聞こえたけど振り返ることは出来なかった。涙が溢れて止まらない。ERRORのことを想うと苦しくて辛いのに。
あんな状態だったリサが私達の前で笑ってくれているのは、マルコさんがリサを助けたから。酷い方法だったけど、それでもリサは人形から『リサ』になれた。全部全部、マルコさんのおかげ――あぁ、だからリサはマルコさんに感謝してるって言ったのか。
「まだ、ぐちゃぐちゃだけど……でも、リサの気持ちは分かった、気がする」
こうして目の当たりにして、リサの気持ちがやっと分かった。
「恨むとか恨まないとか、そういうのじゃなくて」
リサの声が運ばれてくる。
「私も母親になったから……だから、貴方達が最低な親だったってことは分かります」
「……えぇ、どうしようもない親だったわ。私も……あの人も」
「でも……あの子を産んで、必死に育てて、強くなって……沢山の家族が出来て……生きてて良かったって、そう思ってます」
「、」
「だから……だから、ありがとうございました」
産んでくれたこと、育ててくれたこと、棄ててくれたこと――最低な人達だったけれど、だからこそ今の自分がいるのだとリサが笑う。私達に向けるような優しい笑みをあの人に向けている。
ほろほろと零れ落ちる涙を拭うこともしないまま、リサのお母さんはリサを見つめていた。
「ありがとう、お母様」
「、……っ、」
何か言いたそうに口を開いて、でも声が出てこなくて。両手に顔を埋めて嗚咽を漏らすのを少しだけ困ったようにリサが見つめている。リサの手が躊躇いがちにそっと肩に触れると、堰を切ったように声を上げて泣き出したあの人がリサを抱きしめた。
「ごめ、なさいっ……ごめ、なさい!」
何度も、何度も。必死に謝るお母さんに抱きしめられたリサは目を見開き硬直したまま動かない。あんな風に抱きしめられたことがなかったのかもしれない。物心がついて初めて与えられた母の温もりに戸惑っているのかもしれない。
「…………ごめんなさい、取り乱して」
鼻を啜り閊えながらの謝罪にリサは小さく頭を振った。まだ戸惑いから抜け出せていないその姿に、不意に子どもの頃の記憶が蘇る。
島のあちこちを探検していていつもより遅く帰宅した時のことだ。お爺ちゃんもお婆ちゃんもお父さんも物凄い剣幕で私に駆け寄ってきて、代わる代わる抱きしめられた。怪我はないか、どこに行ってたんだ、何かあったのか――そんなに心配させていたなんて夢にも思わなくて。あの時の私も今のリサのように戸惑いながら突っ立っていた。
「あの子のことも…………本当にごめんなさい。あの子は――」
「大丈夫……生きてます」
「そう……良かった…………良かった……」
リサから離れたその人は、涙で濡れた顔で優しく微笑んだ。綺麗だと素直にそう思った。あの家で会った時も、きちんと化粧をして身嗜みを整えていて綺麗だった。でも、泣き腫らして化粧も崩れて、そんな状態で笑う今の方がずっとずっと綺麗だ。
「もう行くんでしょう? 私にこんなこと言う資格はないけど…………体に気を付けてね」
「、」
微動だにしないリサから視線を離してこちらを向いたあの人が深く頭を下げる。何も言うことはしない。ただ頭を下げるだけ。それなのにどうしてだろうか。
『娘をよろしくお願いします』
そう言っているように聞こえた。