足元を見下ろしていた。
見るも無残な姿で横たわるのは紛れもなく『あの人』で。そうさせたのは『あの子』で。
次々に溢れて頬を伝う涙はどんな想いから来るものなのか、自分でも分からない。
あの屋敷を追い出され、町外れの小屋に住み始めてから十数年。初めての客人に何かを感じて外へ出ると、私の監視の為に配備された衛兵がいつものやる気のない様子から一転、どこか興奮した様子で子電伝虫を食い入るように見つめていた。客人が訪れた時には姿が見えなかったから、いつものようにどこかで昼寝をしていたのだろう。すっかり目を覚ました様子の衛兵が凝視する手のひらの上、子電伝虫が忙しなく音声を伝えてくる。聞こえてくる声はどれも同じように切羽詰まっていて、けれど雑音に紛れて殆ど何も聞き取れない。雑音を掻き消すように響いた銃声を最後に、声は聞こえなくなった。
尋常ではない事が起きているという事だけは理解出来て、もう何年も私を求めてはくれないあの人が浮かんで駆け出した。慌てて追いかけてくる衛兵が何か叫んでいたけれど、好奇心が抑えきれなかったのか私を止める事はせずに後を追ってきた。
屋敷の前は酷い有様だった。あちこちに倒れている海兵や衛兵の姿を見てこみ上げた吐き気を何とか堪え、無意識にあの人を探した。どうして探すの、私を捨てた人なのに――頭の片隅で冷静な声が訴えてくるのを無視して喧騒の中を必死に駆け回って。
呆然と立ち尽くす『あの子』がいた。
もうずっと昔に追い出してしまった『あの子』が。フィレイが、いた。
タミと名乗った彼女と話したからだろうか、私は十数年ぶりに見る娘を食い入るように見つめた。あの頃と然程変わらない顔立ち、潮風を含んだ髪はあの頃より傷んでいる事が一目で分かる。もういい歳だろうに化粧は必要最低限しかしていない。昔の私であれば怒り狂って身嗜みを整えさせた事だろう。
あの頃と同じように表情の抜けたフィレイの、何かを見つめるその目だけは感情を宿していた。
感情なんてあの子の中には存在していないものだと思っていた。そんなもの、あの人の娘として生きるあの子には必要のないものだと思っていた。
フィレイの視線の先には『フィレイ』がいた。
違う。フィレイじゃない。若い。けれど私が知っているフィレイに酷く似ていた。どこかで見た事のある顔の青年が泣きそうな顔でフィレイに似た少女を抱きかかえているのを、フィレイが呆然とした様子で見つめていた。
「アンタ! こんなトコで何やってんだ!」
こっちに来いと腕を引く衛兵に連れられて遠ざかる間も、私の目は必死にフィレイを追った。何故かタミがあの子の隣にいる。泣いている。必死にフィレイに何かを訴えて、けれどフィレイはそれすら聞こえていないかのように『フィレイ』を見つめていて。
「、はな、して……!」
衛兵の腕を振り払って足を止めた。何故だろう、逃げなければならないのに。
今更あの子を見つけたからって、私に出来る事なんて何もないのに。
”アレを見つけたら報告しろ”
数年前から『あの人』は私の元を訪れてはそう吐き捨てて帰っていった。
跡継ぎになるはずだった本妻の息子が病気で死に、その事が原因で本妻も実家へと送り返されて。あの人がまた私を見てくれる――そう喜んだのも束の間、あの人自身が子を望めない身体になっている事が発覚した。
用済みだと捨てたその口で、何故フィレイを追い出したのかと私を責めたあの人を、もう愛しいとは思えなかった。
ただただ愚かだった自分を悔やみながら生きてきた。
あの子はどうしているだろうか。
もう死んでしまっただろうか。
そんな事を考える資格すら無いと知りながら、どうしても考える事を止められなかった。
自由を手に入れたあの子は元気にしているだろうか。
笑えるようになっただろうか。
友人は出来ただろうか。
愛しい人は出来ただろうか。
温かい家庭を築く事が出来ただろうか。
自分の罪を軽くしたかっただけなのかもしれない。私が追い出したから、あの子が自由を手に入れたんだと――私があの子を解放してやったのだと、そんな都合の良い事を考えて自分を慰め続けてきた。
手配書で見た事のある男がフィレイの元へやって来て頬を叩くと、男を見上げたフィレイの目からぽろぽろと涙が溢れて頬を伝う。悲しいと、辛くて堪らないといった様子で泣きじゃくるフィレイが男に支えられて去っていく姿は滲んで見えなくなった。
あぁ、そうか。
泣くことが出来るようになったのか。
あの子は漸く、感情を持つことが出来たのか。
フィレイによく似た少女はもうどこにもいなかった。涙を拭って辺りを見回し、歩き回ること数分。屋敷前の道に敷き詰められた石畳の上にそれはいた。薄汚れた服はそれでも高価なものだと一目で分かって。恐る恐る覗き込むと、光を持たないガラス玉のような双眸に息を呑んだ。
「あなた……あぁ、どうして……」
無意識に漏れた声に涙が滲む。鼻の奥がツンと痛んだ。
彼の傍らには彼が愛用していた銃が落ちていて、こんなものを手にする前にさっさと逃げれば良かったのにと思うと同時に、血に染まる『フィレイ』を思い出した。
あぁ、あなたは。あなたまで。
「資格がなかったのよ……あなたも、私も……」
人の親になる資格がなかった。そんなものを持っていなかった。
持てるはずだった。持っていたはずだった。愛していた人との子だったのに。
私たちは、あの子を傷つけるだけの存在でしかなかった。
せめてもの思いでそっと目を伏せてやると、到底老いを隠せない年齢にまでなった彼はより一層みすぼらしく、惨めな存在だった。こんなにも薄汚れていて、誰もがこの人を素通りして慌てふためいている。こんなにも立派な屋敷の主だったはずなのに。こんなにも大きな島を治める領主だったはずなのに。
あなたは、何て悲しい人なんでしょう。
私は、何て愚かな女なんでしょう。
目尻に溜まった涙を拭って立ち上がり、これからどうしたら良いのかと途方に暮れる。あんなにも立派だった屋敷を見上げると、きっとこの屋敷は見せかけだけのものだったのだろうとさえ思えた。
不意に、木陰に倒れるメイドが目に入った。『フィレイ』と同じくらいだろうか。近寄って確かめてみれば息があり、ただ気を失っているだけだという事が分かる。
これはただの罪滅ぼしだ。あの人への想いに溺れ、何もかも壊してしまった私の。今更このメイドを助けたところで何一つ変わらないことは分かっている。けれど、それでも、もう見て見ぬ振りはしたくないから。もう後悔はしたくないから。
「――衛兵! 衛兵! どこにいるの!」
声を張り上げると面倒臭そうな顔をした衛兵が戻ってきた。このメイドを運んでちょうだい。そう言った私にまた嫌な顔をして、けれど「早く!」と急かせば溜息混じりにメイドを抱き上げて元来た道を戻っていった。
「この家は終わりだ。領主が死んだ」
「……そう」
「アンタも、これからの事考えた方が良いんじゃないか」
俺はまた職探しだとぼやく衛兵の声を聞きながら、薄暗いトンネルを進む。フィレイを追い出してから捨てた家財が散乱する道を歩いていると目に入った額縁。若い頃のフィレイの肖像画だ。感情に任せて切り裂いてしまったあの頃の私をどれほど呪った事か。
「……大きく、なったのね」
「ん? 何か言ったか?」
振り返る衛兵に何でもないと返してそっと目を閉じた。