まるで迷子の子どものようだ――すぐそこで蹲るタミを見てそんなことを思う。
元から長くない手足を縮めてこれでもかと小さくなるその姿は、今にも消えてしまいそうなほど脆く見えた。
タミという女と初めて出会ったのは、タミが乗船して少し経った頃だった。
「うぶょっ!!」
副隊長である自分に与えられた部屋から出たところで聞こえてきたのは、少し離れた場所から何かをぶつけたような鈍い音とおかしな奇声。この船では珍しい女の声だった。咄嗟にそちらへ視線を向けた俺の目に飛び込んだのは、マルコ隊長の部屋の前で額を押さえて蹲る女の姿だった。
「っ、たぁ……! もーー! 痛いんですよ! マルコさんのバーカバーカ!!」
涙を滲ませる女が新しく入った女だということはすぐに分かった。確かエースより年上だと聞いていたが、その口から飛び出たのは子どもでも吃驚するだろう幼稚な罵声。それを向けられているのは部屋の中にいるマルコ隊長だが、二人を隔てる一枚の木の板は完全に口を閉ざしたまま開く気配もない。
立ち尽くす俺に気付かないまま、ウンともスンとも言わない戸――の向こうにいるマルコ隊長――に向かって罵詈雑言を浴びせ続けているあの女の名前は何だったか。確かロナンから聞いたはずなんだが……、
「――あぁ、そうだ。タミだ」
「バカー! ハ――へい?」
最後に何て言おうとしたのかは考えないようにしよう。前にエースが酔っ払ってマルコ隊長にその暴言を投げかけた時、不死鳥に変身したマルコ隊長からきついお仕置きを受けていたのを思い出した。
無意識に出した声に反応して振り向いたタミの額は、どこかにぶつけたのか赤くなっていた。じっとこちらを見つめながらウンウン唸るタミを訝み見つめ返すと、数秒後、パッと顔を輝かせたタミが俺を指して口を開く。
「ジウ君!!」
「ん? あぁ……合ってる」
千六百人もの人間がいるこのモビー・ディック号で、乗ったばかりの人間がクルー達の顔と名前を一致させることはそう容易いことじゃない。よく俺の名前を見つけ出すことが出来たもんだと感心しながら歩み寄り手を差し出してやれば、地べたに座り込んだままだったタミが嬉しそうに手を重ねた。
「よく分かったな」
「ロナン君から聞いたんだ! ジウ君のこといっぱい話してたよ」
「………妙なこと吹き込まれてねぇだろうな」
思いがけず出てきた名前に一瞬ドキリとして肩を揺らしてしまったが、タミがそれに気付くことはなかった。
このタミという女は、少し前に入団したリサちゃんやERRORとは違うタイプの人間だった。こんな言い方をすればきっと怒られるだろうが、タミは女には見えなかった。妹、と言えば良いのだろうか。性別は女だけど女という感じがしないし、ジウ君、ジウ君と笑顔で駆け寄ってくるその姿は、数年前に老衰で海に還ったステファンという名の犬と重なって見えた。タミの背後に尻尾が見えるような気がするんだから不思議だ。
ナースたちのように洗練された日や教養や知識があるわけでなく、リサちゃんやERRORのように秀でた容姿や優れた戦闘力を持っているわけでもない。誇れる部分と同じくらい悪いところを持っているタミは、出会ったばかりだというのに俺の中で「妹」としてすんなり収まった。
「聞いてよ! マルコさんが酷いんだよ!!」
タミは笑ったり怒ったり忙しい奴だった。
マルコ隊長の部屋の前で、声を潜めるどころか廊下の端まで聞こえるんじゃないかってくらいの大声で隊長の悪口を言い連ねていくタミに、呆れを通り越して感心したのをよく覚えている。
そして、入団したばかりのタミはよく分かっていなかったのかもしれないが、俺の隊長はそんなに気の長い人じゃない。かなり耐えた方だとは思うが、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのだろう、タミの背後にある戸が静かに開いた。
「あ」
「い? ――あぎゃっ!!」
僅かに開いた戸からにゅっと出てきた分厚い本の角が、容赦なくタミの脳天に振り落とされた。続いて現れたのは、般若のような顔をしたマルコ隊長その人だ。
「っせぇんだよい!! 仕事がちっとも捗らねぇ!!!」
「やーーー!!! いだい!! いだいいいいい!!!!」
「るせぇ!! おいジウ! とっととコイツ連れてけ!!」
「……はい」
般若のような顔をした隊長が突き飛ばしたタミを慌てて受け止めた俺は、涙をぼろぼろと流しながら痛いと喚くタミを強引に引っ張り甲板へと向かった。道中、余りにも痛い痛いと喚くタミを宥めるように頭を撫でてやれば、不意に指先に当たる大きめのコブに気付く。
「うわ、痛そ」
「痛いんだよ! マルコさんの馬鹿!」
「冷やすものでも持ってくるか?」
医務室ならそんなに遠くはない。じんわりと熱を持ったコブに触れないように気を付けながら乱れた髪を整えてやっていると、きょとんと目を丸くしていたタミがへらりと表情を緩めた。さっきまであんなに泣いていたくせに一瞬で泣き止むのか。呆れと驚きで言葉を失くした俺の前でだらしなく頬を緩めたタミの口から漏れでたのは「えへへー」なんてだらけた声だった。
「ジウ君は優しいねぇ」
何のことはない言葉だった。
それでも、感じたままに零れたんだろうその真っ直ぐで無邪気な言葉が、ただ優しかった。
あの日から、タミは何かあると俺のところにやって来ては「マルコさんがね!」と愚痴を零した。いつだってやって来た時は顰め面か泣き面で、けど愚痴を零しているうちに話が二転三転して、出て行く時には最初の用事なんて忘れたようにヘラヘラ笑って帰っていく。
「妙なモンに懐かれちまったな」
ご愁傷様、なんて笑うロナンに肩を竦めてみせることしかしなかったのは、無邪気すぎる妹の来訪を俺も楽しんでいたからなのだろう。
よく笑いよく泣くこの妹が実は無駄に悩むタチだってことを知ったのは、確か赤髪が船にやって来た直後くらいだっただろうか。タミの母親が現れて、本当の父親というものまで現れて――笑顔で別れたものの、俺の部屋にやって来たタミはその複雑な心中をぽつぽつと吐露していった。
実の両親のこと、島にいる父のこと、祖父母のこと。血の繋がりなんかなくたって何も変わらない。タミ自身もそれは分かっていたが、彼らが自分のことを邪魔に思ったりしなかったのだろうか、と漏らした声はいつものタミからは信じられないくらいか細くて弱々しかった。
その数日後にはリサちゃん達からERRORの父親のことを聞かされたらしく、また俺の部屋でぼそぼそと何事かを呟いていた。俺が拾えたのは「リサとERRORが可哀想」だとか「酷い」だとか。
確かに、ERRORの父親については俺も思うところがあった。あの人のおかげと笑うリサちゃんのお人好し過ぎると思う。でも、きっとリサちゃん自身も相当悩んだんだろう。悩んで、赤髪たちに助けられながらERRORを育てて、そして出した答えがアレだというのなら、俺には何も言うことはなかった。俺は、俺たちは、ただ家族としてあの二人を支えたいとそう思った。助け合いながら皆で生きて行けば良い、そう思った。
タミの生きていた島は良くも悪くも平和だった。だからこそタミは人間の汚い部分なんて滅多に見ることなく育ったし、それはあの島で生きる分には良いことなのだろう。けれど、他所の島で生きるには問題なんじゃないかと俺は思う。
現に、タミはリサちゃんがERRORの父親から受けた仕打ちを受け入れられずにいる。リサちゃんが笑う理由が分からなくて、リサちゃんが「あの人のおかげ」と言える理由が理解出来ていない。少し前に上陸した女を奴隷のように扱う島だって、タミは必死に目と耳を塞いで意識の外に追い出そうとしていた。
タミの生きていた島は良くも悪くも平和だった。平和過ぎたのだ。
これが、平和な島で生きてきた代償だとでも言うのだろうか。
俺にも責任の一端はある。「大丈夫だ」とタミに言ったのは俺だ。
ERRORの父親の話を聞いて、あの島での男たちを見て不安定になっていたタミに「大丈夫だ」と言い聞かせた。この船にはそんな奴らはいない、この船にいる奴らはお前の味方だ、と。
マルコ隊長が立ち去った後、数分もせずに医務室から出てきたのはサッチ隊長とリサちゃんだった。二人で話があるのだと言ったサッチ隊長がイゾウ隊長の足元で蹲るタミの頭を撫でて優しく笑いかける。
「タミ、こんなとこにいねぇでERRORちゃんについててやれよ」
両腕に顔を埋めたまま小さく頷くタミに目を細めた隊長は、俺らをぐるりと見回してから最後にイゾウ隊長へと視線を定めた。
「頼むわ」
答えずに視線だけを向けるイゾウ隊長に、何かを察したのか苦笑を浮かべたサッチ隊長がリサちゃんと連れ立って去っていく。その後ろ姿を見送ると、溜息を一つ落としたイゾウ隊長がタミの頭に手を置いた。
「ほら、タミ」
「………あい」
タミたちに続いて医務室に入ると、エースが部屋の隅で膝を抱えていた。てっきりERRORの傍にいるのかと思って問いかければ、ERRORの身体にこびり付いた血を拭う為に追い出されたのだと言う。同性のタミは許されるだろうが、情けない顔で膝を抱えるエースを気遣ったのかERRORの元へ行くことはせず、エースの隣にちょこんと収まった。
無言のまま膝を抱える二人の情けない顔は、本物の家族かと疑ってしまう程にそっくりだ。一緒にいると顔が似てくるのだろうか、なんてことを考えて思わず笑みを零した俺は、隣で笑う気配に気付いてそちらへ目を向けた。隣に立つロナンもエースとタミを見て笑っている。長いこと一緒にいるこの親友と俺も、気付かない内に似てきているのだろうか――そんなことを考えていると、こちらの視線に気付いた親友がエースとタミを顎で指してくつくつと笑う。そんな親友につられるように、俺もくつりと笑みを浮かべた。