「ラ、ライア……」
控えめに呼びかける取り巻きにライアは冷めた視線を向けた。
息を呑んだ彼女は微かに身を震わせながらそっと囁く。もうすぐ掃除の時間だよ、と。
「あぁ……そう」
そう言えばそうだったわね。
くすりと笑みを落として立ち上がるライアを見つめる取り巻きの目には恐怖の色しかない。
怖くて仕方がない。そんな視線を向けられるのは鬱陶しいが、いつもの媚びるような態度にも似たようなことを思っていたのだから、どちらでも変わりはない。
どうだって良いのだ。
こんな奴ら、いてもいなくても困らない。その程度の存在でしかないのだから。
部屋を出て甲板に向かえば、既に二番隊のクルーたちが集まっていた。
自隊の隊長を囲んだ彼らは、実のところはどうなんすか?などとはやし立ててはリサに拳骨を食らっていた。
ライアの登場に気付いていないらしい彼らは、和気藹々と談笑に耽っている。
「だーから違うっつってんだろうが!」
「だーってよォ、なぁ?」
「ムキになるところが怪しいっつうか」
「バカか! とっとと掃除始めろ!!」
隊員たちを足蹴にして追い立てるリサに、彼らは声を上げて笑いながらデッキブラシへと手を伸ばす。
「あーあ、俺らの隊長ってこえーよなぁ」
「全くだぜ。折角の女隊長なんだからもっと優しくしてくれりゃいいのに」
「ハッ、そりゃ残念だったな。島に着いたら優しい女に存分に慰めてもらえ」
ちぇ。
たいちょー、もちょっと色気ある格好してもバチ当たらねぇよ。
よし、お前ら一時間追加な
げっ!
マジかよ!
軽口を言い合いながら掃除をしている彼らはライアたちに気付くことはない。
まるで、その存在すら忘れているかのようではないか。
和気藹々とデッキブラシで板張りの床を磨き上げていく彼らを冷めた目で見つめ、ライアは拳を握り締めた。
どいつもこいつも、人を苛立たせる奴らばかりだ。
「やばっ、もう始まってる!」
背後から聞こえる慌てた声に振り返れば、慌てて髪を結びながら駆けてくるテレサの姿がある。
こちらに気付いたテレサが「ん?」と首を傾げ、ライアたちの前で一度立ち止まる。
「何やってんの、とっとと始めるわよ」
ほら、行くよ。
返事も聞かずに甲板に飛び出したテレサが「ごっめーん!」と叫びながらリサに駆け寄っていく。
遅ェ!叫んだリサが漸くライアたちに気付いて、手にしていたデッキブラシをテレサに押し付けてこちらへやって来た。
「お前らもとっとと掃除しちまえよ、何サボッてんだ?」
返事の代わりに侮蔑の眼差しをくれてやれば、不満げに眉を上げたリサが溜息を一つ落とす。
「あのな、どうでも良いけど仕事はちゃんとやれよ」
「アンタの指図なんか受けたくない」
「受けたくなかろうが、私はお前の隊長だ。どんなに私を嫌ってようが、隊長の命令には従ってもらう」
「力ずくで?」
挑発するように問いかければ、顔を顰めたリサは鼻を鳴らしてライアに背を向けた。
「悪ィな、弱い者イジメはしねぇ主義だ」
「っ、何ですって!?」
聞き捨てならない。それだけは。
許せない。その言葉だけは。
ヒステリックに声を荒らげたライアに、甲板にいた者たちが何事かと振り返る。
険しい顔でリサに食ってかかるライアを捉え、先のマルコとリサの噂を思い出して溜息。
「まーたやってんのかアイツは」
「放っとけよ、俺らが口出したって変わんねぇだろ」
「おい、マルコ隊長呼んで来いよ」
「余計煩くなるだけじゃねぇの?」
「これじゃ仕事になんねぇだろ」
それもそうか。頷いたクルーが近くにいたクルーを引っ張って船室へと消えていった。
それにも気付かないライアは、憎しみの篭った目でリサを睨み付けている。
「私が、弱いって言いたいの……!!?」
そこらの海賊に負けるほど弱いつもりはない。
海賊として生きてきた以上、戦闘は避けられないことだ。ライアだってそれなりに鍛錬を積んで死ぬ気で戦ってこれまでやってきた。その結果が『白ひげ海賊団』だ。
世界最強と謳われる男の船に乗ったのだ。弱いはずがない。弱いだなんて、絶対に言わせない。
それなのに。振り返ったリサは言う。
「だってお前、私より弱いだろ」
何てことない顔で。まるで当たり前のことを告げるかのように。
弱い。
そう、弱い。
どうしたって勝てなかった。
もし、この女より強ければ。
そうすれば二番隊隊長になっていたのは私だったかもしれないのに。
勝てなかった。
「っ、」
グッと拳を握り締め、歯を食いしばる。
悔しい。どうして。何で。あんなに頑張ったのに。こんなに強くなったのに。
こんな奴の方が、強いなんて。
「アンタなんかに……っ、」
奪われた。
隊長の座も、――マルコも。
あんな噂、信じてなどいない。
けれどマルコがリサを意識し始めていることは変えようのない事実だ。
たとえマルコ自身が認めたくないと思っていたとしても。
認めまいとムキになっている所が、また腹立たしい。
冷やかすクルーたちも、
ムキになるマルコも、
気付かないリサも。
あぁ、苛々する。
あぁ、あぁ、苛々する。
黒くドロドロとしたものが胸の内に広がっていくのが分かる。
『それ』に触れては危険だと警鐘が鳴り響くのに、どうしてだろうか。『それ』に手を伸ばせと頭の奥で何かが囁くのだ。
触れてしまえば楽になるぞ、と。
一瞬の躊躇を『それ』は見逃さない。
躊躇うライアをいとも簡単に絡みとり、雁字搦めにして身動きを取れなくしてしまう。
そして囁くのだ。
欲しいものは、全て奪い取れ。
新たなデッキブラシを手にして掃除を始めるリサの姿を目に映し、ライアは静かに息を吸い込んだ。
あぁ、そうよ。
許さない。
認めない。
弱い?私が?
確かに力では敵わないかもしれない。
どうしたって戦闘力は自分の方が下だ。
けれど、強さはそれだけで決めるものではない。
「痛みに鈍いって、どんな感じ?」
「あぁ?」
「――ねぇ、元奴隷さん」
ぴたり。一瞬動きを止めたリサは、けれどまるで気にしてませんという顔で掃除を再開する。
それが気に食わず、目を眇めたライアは更に続けた。
「人より痛覚が鈍いんですってね。それだけ痛め付けられてきたんでしょう?」
「ライア」
静かな牽制の声へと視線を向ければ、こちらを鋭く見つめるレイアの姿がある。
「貴方の家にいたんでしょう? どんな事をされたの? 犬のように扱われなかった? ちゃんとしたものは食べさせてもらえた? ねぇ、教えてよ『隊長』」
相変わらずリサはこちらを見ない。一心不乱に床を擦り続けるその姿は、まるで聞くまいと必死になっているようではないか。ライアは口角を吊り上げた。
「嬉しくて堪らないんじゃない? 下の世話までして差し上げたご主人様の娘を部下に持てるなん――」
ライアの言葉は最後まで続かなかった。
すぐそこにいたリサの姿を捉えていたはずなのに、突然視界が反転して。
雲一つない真っ青な空が見えたと思ったら、ぎらりと輝く何かが目の前に突きつけられていた。
反射的に瞬きをすると鋒が瞼を掠り、小さな痛みが走る。
少しでも動いたら、この鋭い鋒は容赦なくライアの目を切り裂いてしまうのだろう。恐怖に喉を引き攣らせたライアは、耳のすぐ傍で聞こえた撃鉄を起こす音に更に息を呑む。その存在を主張するかのように、ごり、とこめかみに押し当てられた『何か』。
「っ、ぁ、が……」
何かを言おうにも、口の中に押し込まれた鉄臭いものがそれを拒絶する。
腹部が圧迫され、苦しい。痛い。
声が出せなくて。
動くことも出来なくて。
目を逸らすことも出来なくて。
ただただ、突き刺すような殺意だけがライアを取り囲んでいた。