出航準備を終えたモビー・ディック号は白ひげの指示により碇を上げて出航した。流れに乗りゆっくりと港を離れていくモビー・ディック号の甲板で、レイアは自身の故郷であったメルエル島を見つめていた。船は海流に身を任せながらぐるりと島に沿って進んで行く。
「恋しいか?」
隣に並びからかうように声をかけたサッチに、レイアは島を見つめたまま「まさか」と肩を竦めた。
「二度とこの島に来る事は無いだろうから、見納め」
「今更だけどよ、良かったのか? 折角の貴族人生あっさり捨てちまって」
「小さい頃に十分堪能させてもらったわ。そんなに良いものじゃないのよ、貴族って」
「エリーネって名前も捨てちまうんだよなぁ。勿体ねぇな、いい名前じゃねぇか」
「レイアの方が気に入ってる。良いの、貴族のエリーネは死んだの。これからは白ひげ海賊団のレイアとして生きていくから」
振り返り微笑むレイアにサッチも顔を緩ませてレイアへ手を伸ばす。頭を撫でてやるとレイアは何処かくすぐったそうにはにかみ、もう一度島に目を向け――そして目を見開いた。
「レオン?」
切り立った崖の上に見つけた兄の姿に、レイアは驚き視線をレオンに向けながら慌てて隣に立つサッチの腕を叩いた。
「リサ!! リサ呼んできて!」
「お、おう!」
レイアの剣幕に若干たじろぎながらも頷いたサッチは、大急ぎで船室へと駆け込んでいった。
数分もしない内にリサは甲板へとやって来た。自力で走ると時間がかかるのでサッチに背負われている。
「遅ぇよサッチ!」
「ちょ、リーゼント崩れる! 運んでもらってその言い草かよ!」
「おぉ、サンキュ!」
「軽過ぎだろ!! 『忘れてた!』みたいな言い方してんじゃねぇ!」
ブツブツ文句を口にしながら髪を直そうとするサッチの背から飛び降りたリサは、レイアの隣に並んで崖の上にいるレオンを見上げた。リサの姿を見たレオンは僅かに微笑み、静かに深呼吸をして口を開く。
「亡き父に代わり私が当主となる! エリーネ! 海賊などというものに身をやつした貴様にその名を名乗る資格は無い! 貴様を我が家から永久に追放する!!」
先程の微笑みが嘘のように冷たい声音で吐き捨てるレオン。甲板にいたクルー達が顔を顰め、数人が腰に提げた銃へと手を伸ばす。けれど、レオンに銃が向けられることは無かった。白ひげが姿を現した事に気付いたクルー達は白ひげが静かに首を横に振ったのを見て不承不承その手を放したのだった。そうする間にも張り上げたレオンの声が甲板へと向けられる。
「この島の土を踏む事すら烏滸がましい!! 二度とこの地に足を踏み入れるな!」
「レオ、」
「――好きなように、生きるが良い!!」
「っ、」
見開かれたレイアの瞳から溢れた雫が頬を伝う。家にいる事が嫌で、リサが奴隷として扱われる事が嫌で家を出た。レオンはいつも相談に乗っていてくれた。自分だって嫌だっただろうに、レイアに「行け」と言ってくれた。自由になれた事は嬉しかったが、家に縛り付けられているであろうレオンを想い、何度も唇を噛み締め涙を飲み込んだ。あの時逃げた事は間違いだったのではないか。どんなに時間が経過しても変わる事のないリサを見るたびにその疑問は重さを増してレイアを責めた。
海賊として故郷へと戻ってきたレイアを見て、レオンはどう思っただろうか。父親を手にかける事を決めて戻って来た妹に、兄は何を想っただろうか。考えては息が苦しくなった。
そして、全てが終わった今、レオンはこうして背中を押してくれる。責める事も褒める事もせずに、ただ好きなように生きろと背中を押してくれる。かつて、家を出ても良いと笑ってくれた時と同じように。広い心でレイアの全てを受け入れて背中を押してくれる。
その背に背負うものの重さを承知しながら、弱音を吐く事なく微笑み背中を押してくれる兄に、レイアはただただ涙を流しながら何度も頷いた。謝ることも出来ない。礼を述べる事も出来ない。ただ、頷くことしか許されない操り人形のように頭を振る事しか出来なかった。
「そして、イレイサ!」
レオンの呼び掛けにリサが僅かに身を強ばらせる。
「我が家に忠誠を誓えん奴隷など必要ない! 現当主の権限をもって貴様を廃棄する事を決定した! 何処へなりとも好きに行くが良い!!」
「レオン、」
「そして、その名は前当主である我が父が与えしもの。今後、その名を名乗る事を禁ずる!!」
「レオ、」
「今後、お前の行動は我が家の知るところではない。だが――」
言葉を切り、レオンは僅かに逡巡した様子でリサを見下ろしていた。何かを言おうと口を開きかけたレオンは、けれどすぐに口を噤んで静かに目を伏せた。身体の横で握り締められた拳が僅かに震えているように見えた。
「――お前は、もう自由だ。これから言う事は命令ではない。私の願いを聞き入れるか否かは君が決めてくれて構わない」
『妹を、頼む』
何かを押し殺したような顔で笑みを作るレオンを見つめていたリサは、やがて静かに跪いた。
「貴族の小僧にしちゃ骨のある野郎だ」
背後で成り行きを見守っていた白ひげがニヤリと口端を上げる。誰かが鼻を啜った音が白ひげの耳に届いた。やがて、俯いたまま袖で拭顔を拭ったリサは、立ち上がり満面の笑みを浮かべてレオンに向かって叫んだ。
「任せろ!!」
大きく手を振り笑うリサにレオンは満足したような顔で優しく微笑んだ。足元に置いていた小さな花束を手にすると、愛おしげに花弁を撫でてから船に向けて放り投げた。放物線を描きながら落下した花束がリサの手に収まったのを見届けると、レオンは踵を返し船に背を向け振り返ることなく颯爽と去って行った。
前を見据え、堂々と去って行くレオンを呼び止める者は誰もいなかった。
威風堂々たる様子で去って行く兄の姿が見えなくなると、レイアは呆然と花束を見つめるリサに微笑みかけた。
「気付いてなかったの?」
「………」
答えず、リサは花束を抱きしめる。花を愛でるような性格ではないと認識していたクルー達が揃って首を傾げると、レイアはリサの肩に頭を預けて口を開いた。
「『愛しき者との別れ』、か……妹の私にくれないなんて、レオンは薄情者ね」
「なぁ、それ何だ?」
我慢出来ずにサッチが尋ねると、レイアは振り返って肩を竦めた。
「花言葉よ。この花はメルエル島にしか咲かない花なの」
「へぇ、花言葉……そんで、『愛しき者との別れ』って事ァ………」
甲板中の視線がリサと手の中の花束に注がれる。花束を見つめていたリサは、無言のままレオンが消えた崖の上を見つめた。それから何かに気付いたように小さく笑い、レイアの名を呼んだ。
「何?」
「私、さ……レオンが好きだった……かも」
「そんなの、とっくの昔から知ってたわよ」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
あっさりと肯定するレイアに目を丸くしたリサは、もう一度花束に視線を落として僅かに口端を上げた。
「……そっか」
照れ臭そうな顔でニッと笑いながら一本だけ花を取ると花束をレイアに渡した。
「ん、こっちはレイアの分」
「リサがもらったのに?」
「二人で一つだろ? レオンがレイアの事を無視する訳ねぇじゃん」
強引にレイアの手に花束を押し付けると、リサはその一本を見下ろし茎をクルクルと回して顔を綻ばせた。
「私は一本で十分だ」
「次の島で花瓶でも買わなきゃね」
手の中の花束を見下ろし、レイアも微笑む。白ひげの笑い声が響き渡り、大きな声が続いた。
「尻尾巻いて逃げてやがった鼻タレどもが漸く前に進んだんだ、こんなめでたい日はねぇ! 野郎ども!! とっとと宴の準備をしねぇか!!」
甲板中から歓声が上がり、船は再び慌ただしくなった。リサとレイアは顔を見合わせて小さく笑い合う。白ひげはそんな二人の頭を大きな手で一撫でして専用の椅子へと向かった。
「取り敢えず、適当なコップにでも生けておけよ。食堂行くぞ」
「えぇ」
サッチの言葉に頷き、レイアはサッチと共に船室へと向かう。リサはもう一度だけ崖を見つめて、口の中だけで呟いた。
「ありがとう」
胸の奥にこびり付いていた何かが消え、心無しか軽くなったような気がする。リサは顔を綻ばせて声を張り上げた。
「おっし! 飲むぞーーーー!!!」
「よっしゃあ! 飲み比べだ!!」
「望むところだ! 負けねぇぞ!!」
クルー達と笑い合うリサを微笑ましげに見遣り、白ひげは再び大きく笑う。
沢山の家族を乗せたモビー・ディック号は、楽しげな笑い声を響かせながら大海原へとその身を泳がせていくのだった。