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新学期最初の飛行訓練の日がやって来た。またもやスリザリンとの合同訓練である。
朝からハリー達の気分は重く、朝食を食べに大広間に下りても表情は晴れなかった。

「大丈夫だって。こっちに構う余裕なんてないよ」
「今日までずっと自分が箒に乗った時の自慢話ばかりしてたじゃないか」

ここ数日のドラコの様子を振り返りながらハリーがうんざりしたように答えた。マグルとして育ってきたハリーは箒に乗った事など一度もない。箒で空を飛ぶなど、物語の中でしか出来ない事だと信じていたからだ。勿論ドラコはそれを知っていて、わざとハリーの前で自分の飛行テクニックを自慢し続けた。つい昨日も、ヘリコプターにぶつかりそうになった時の自分の見事な飛びっぷりを大仰に語ってくださったばかりだ。

「いい性格してるよね」
「本当にね」

溜息をついたハリーがテーブルの上に並べられた美味しそうな料理を眺める。背中を丸めたハリーは料理へと手を伸ばそうとはしなかった。

「あ、これ美味しい」

隣でソーセージを齧っているルーシーに、ハリーからの恨めしげな視線が飛んでくる。何だ、ハリーも食べたいの?見当違いな台詞を口にしてルーシーはハリーの皿にソーセージを載せてやった。当然ながら返ってくるのは溜息だ。

「食べたくないよ」
「お腹減らしたまま飛行訓練するの?」
「箒から落ちたら吐くもの」
「食べなくたって吐くよ」
「ちょっと二人とも」

険を帯びた低い声にぎくりと肩を跳ねさせたルーシーとハリーは、おそるおそる声のする方へと視線を向けた。斜め向かいに座るハーマイオニーが声と同じくらい険しい顔でこちらを睨みつけている。彼女の前にはオートミールが置かれていた。

「あー……いや、その……」
「私たちは、食事中なのよ」

殊更ゆっくり言葉を紡いでいくハーマイオニーの視線が痛い。小さな声で謝罪の言葉を述べ、ルーシーはソーセージをもう一口齧った。隣を見ればバツが悪そうな顔のハリーがフォークでソーセージをつついている。

「大丈夫だって」
「乗った事ないんだ」
「私だってないよ」

勝手にどっか行っちまうから駄目だ。幼い頃からそう言い続けてきたおじさんの顔を思い出して苦く笑う。ハリーの驚いた顔がこちらを見た。

「怖くないの?」
「すっごく楽しみ」

漸く乗れる。己を魔女と知りながら箒に乗ることすら許されなかったのだ、楽しみで仕方がない。
早く訓練の時間にならないかなー。声を弾ませるルーシーの横で、ハリーが小さな声で「羨ましいよ」と呟いた。

午後になり、ルーシー達はグラウンドへと向かった。足取りの重いハリー達の背中を押して急かしながら辿り着くと、スリザリン生や他のグリフィンドール生達は既に集まっていた。
地面に整然と並べられた二十本の箒に心が踊る。ワォ。無意識に漏らした声を拾ったハリーが隣で溜息を落とした。

「何をボヤボヤしているんです。皆、箒の傍に立って!さぁ、早く!右手を箒の上に突き出して、合図――”上がれ!”」

上がれ!全員の声が揃った。けれど箒の方も揃うというわけにはいかなかったらしい。すぐに手の中に収まったもの、地面を転がったもの、うんともすんとも言わず不動を貫くもの――それに対する生徒達の反応も様々だ。
真っ先に手の中に収まった箒をぎゅっと握り締め、ルーシーは感嘆の息を漏らした。あぁ、早く乗りたい!緩む頬を隠そうと唇を噛みしめながら隣へ視線をずらせば、頬を緩めて安堵の息を漏らすハリーの姿がある。ハリーの後ろで今にも泣きそうな顔をしたネビルが必死に「上がれ!」と叫んでいるのが見えた。

「さぁ、私が笛を吹いたら地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上し、それから少し前かがみになって降りてくること。笛を吹いたらですよ。1、2――」

フーチの唇が笛に触れることはなかった。極限まで緊張状態にあったネビルが、笛の音が鳴る前に勢い良く地面を蹴り、空へと飛び上がってしまったのだ。

「こら、戻って来なさい!」

まだ笛を吹いてませんよ!地上で叫ぶフーチを余所に、ネビルはあっという間に空高くまで上がってしまった。どんどん小さくなっていくネビルの顔はきっと血の気が失せて真っ白になっていることだろう。

「ネビル!」

地上で誰もが口々にネビルの名を叫ぶが、ネビルから答えが降ってくることはない。宙に浮かんだネビルがぐらぐらと危なげに揺れているのだけが見えた。

「ねぇ、どうしよう――あっ!」

隣にいるハリーの袖を引いたその時だった。ぐらぐらと揺れていたネビルの身体が一際大きく揺れた次の瞬間、箒から真っ逆さまに落ちた。小さかったネビルの姿が徐々に大きくなっているのが分かる。
このままでは地面に激突してしまう――そう思ったらルーシーの身体は勝手に動いていた。

「ルーシー!?」

箒の柄をぎゅっと握りしめて地面を蹴ったルーシーの背に、ハリーの驚きに染まる声が投げかけられる。物凄い早さで落ちて来るネビルに向けて手を伸ばした。あと少し、あと少し――掴んだ!
けれど、重力に速度を重ねたネビルの身体はルーシーの細い腕一本で支えられるほど軽くはない。せっかく掴んだというのに、ネビルの身体はあっという間にルーシーの手から離れて落ちていってしまった。

「あぁっ!」

地面に落ちたネビルと、あちこちから上がる悲鳴にルーシーの顔が青褪める。あぁ、どうしよう。助けられなかった。のろのろと地面に降り立つと、フーチがネビルを抱き起こして怪我の具合を確認している。

「手首が折れてる」

幸いにもそれ以外には特に大きな外傷はないようだった。頭を打っていなくて良かったと安堵するフーチに、グリフィンドール生達が胸を撫で下ろす。

「私はこの子を医務室に連れていきます。その間、誰も動かないように。箒も置いておいてください。さもないと、クィディッチの『ク』の字を言う前にホグワーツから出て行ってもらいますよ!」

生徒達を見回して言うと、フーチはネビルを抱きかかえて行ってしまった。地面に転がったネビルの箒と、ネビルが落ちた場所とを見てルーシーは唇を噛む。

「ルーシー、君は大丈夫?」

ハリーの問いかけにルーシーは自分の手を見た。ほんの一瞬、ネビルの服を掴んだ手はじんじんと痺れていた。

「大丈夫……」

手を握ったり開いたりしながら腕をさすり、手にした箒をじっと見つめる。初めて乗ったというのに、嬉しい気持ちなど少しも湧いてはこなかった。胃は鉛を飲み込んだかのように重く、瞼の裏には地面に落ちて倒れるネビルの姿が焼き付いている。
何故だろうか。あんな風に誰かが倒れているのを、見た事があるような気がするのだ。

「あいつの顔を見たか? あの大間抜けの」

嘲るような声にグリフィンドール生達は一斉に眉を顰めた。未だ箒を手にしたまま前に進み出てきたドラコが、何かを目指して草むらへと向かう。拾い上げたものには見覚えがあった。今日の朝食の席でネビルに届けられた思い出し玉だ。

「ごらんよ! ロングボトムの婆さんが送ってきたバカ玉だ」
「マルフォイ、それをこっちへ渡してもらおう」

ハリーが静かに言うと、周りで睨み合っていたスリザリン生、グリフィンドール生達の声がぴたりと止んだ。全員の視線がハリーとドラコに向けられると、ドラコはニヤリと笑い思い出し玉を天にかざす。

「それじゃ、ロングボトムが後で取りに来られる所に置いとくよ。そうだな、木の上なんてどうだい?」
「こっちに渡せったら!」

声を荒らげたハリーがドラコに向かって足を踏み出す。すると、それを待っていたとでもいうようにドラコは手にしていた箒にヒラリと跨がり飛び上がった。これまでの自慢は嘘ではなかったらしい。あっという間に樫の木の梢と同じ高さまで上がると、危なげなくそこに浮いたままハリーに呼びかけた。

「ここまで取りに来いよ、ポッター!」

ドラコの挑発に顔を歪めたハリーが、ルーシーの手から箒を引ったくる。

「ダメ!」

声を荒らげたのはハーマイオニーだ。

「フーチ先生が仰ったでしょう、動いちゃいけないって! 私達、皆が迷惑するのよ!」

ハリーはハーマイオニーの忠告を無視して箒に跨ると、あっという間に空へと飛び上がってしまった。初めてとは思えないほど上手に乗りこなすハリーに、グリフィンドール生から歓声が上がった。